第74話 絶望するパンドラ その二



 画家本人の前で、ずいぶん、おどけたことをしていたわけだ。

 急に恥ずかしくなって、龍郎は口ごもった。


「あっ、どうも……」


 もごもご言って頭をさげる。

 青蘭の手をひいて立ち去ろうとしたのだが、画家に呼びとめられてしまった。


「ああ、逃げなくてもいいよ。君たち、絵画に興味あるの? よければ、うちに来ないか?」

「あっ、いえ。けっこうです」

「ああ、待った! 君の彼女、すごく芸術家の創作意欲をそそるんだ。早い話がモデルになってほしい」


 いつもの青蘭なら、「ウルサイな。愚民ごときが」と言い返すところだが、今日はなぜだか、おとなしい。貯金を封印されたショックがまだ続いているようだ。牙を折られた虎、爪を切られた鷹状態だ。


「これ、おれの名刺。気がむいたらでいいから連絡してくれないか?」


 青蘭の手をギュッとにぎるようにして名刺を渡してくるのにも、されるままになっている。


 あきらかに青蘭狙いのナンパだ。

 彼氏の前で誘えるなんて、芸術家というのは意外とツラの皮が厚い。


 名刺はあとでゴミ箱にすてようと龍郎は考えたのだが、その思考を画家は読んだらしい。


「お礼に描いた絵をプレゼントするよ? これでも美術館に飾られる腕ではある。それなりの価格にはなるよ」


 歩きかける龍郎の背中に、そう声がかかってきた。

 これには龍郎の気持ちもグラついた。


「……いや、でも、そこのパンドラみたいな画風ですよね? 青蘭をムンクタッチで描かれても置き場に困るだけなんで」

「大丈夫。ちゃんとアカデミックな絵も描ける」

「…………」


 そう言われると心が動く。

 画家の技量がいかほどのものか知らないが、特別展の展示物のような美しい筆致で描かれた肖像画なら、龍郎も欲しい。


「……それ、時間がかかりますか?」

「ちゃんとした油絵なら、早くて一ヶ月」

「遅ければ?」

「半年とか、一年かかることも」

「一ヶ月でなんとかしてください」

「いいよ。じゃあ、今から、うちに来てくれ」

「えっ? 今から?」

「アトリエに通ってもらうことになるからね。場所を教えておかないと」


 なんだか乗せられたような気もするが、青蘭の麗しい肖像画を飾った自室を想像すると断ることはできなかった。


 しかたなく、美術館を出て黒川の車についていく。

 黒川の自宅はM市にあった。

 ただ、市内のにぎやかな地区ではなく、となりのI市よりの湖のほとりだ。南向きの窓から湖面が広々と眺望できる。喫茶店のようにオシャレな家だ。やはり画家というからにはセンスがいい。


「風情がありますね」

「この景色が好きで、わざわざ越してきたからね。さ、どうぞ。入ってください」


 遠慮なくおジャマする。

 日本の一般家庭ではたいてい玄関で下足をぬぐが、この家には靴ぬぎに相当する場所がない。じっさいに喫茶店を改築したのかもしれない。

 玄関ホールがそのまま、黒川のアトリエになっていた。画材やイーゼルが置かれている。

 左右にドアがあるから、住居部分は別になっているのだろう。


「この家からだと祭りの花火が見えるんじゃないですか?」

「見えるよ。ちょっと小さめだけどね。じゃあ、青蘭さん? 椅子にすわってくれるかな? とりあえずデッサンするから」


 青蘭は言われるがまま、憂鬱ゆううつそうに窓辺の椅子に腰かけた。

 黒川は炭のようなものでスケッチブックに何やら描き始める。脇で見ていると、やはり本職の画家だけあって、かなりうまい。


 一枚ずつの時間はほんの数分から十数分だが、何枚も没頭したように描くので、待っているあいだ、龍郎は退屈だった。


「絵がありますね。見ていいですか?」

「どうぞ」


 アトリエには完成作がたくさんあった。額に入れて飾られたものもあれば、むきだしのまま、ならべて壁に立てかけたものもある。

 許可をもらったので、それらを見ながら時間をつぶしていた。


 美術館で見たパンドラに似たタッチのモノクロの絵が多い。鳥のようなものや、銀河の渦巻きのようなものや、画題は幻想的だ。

 龍郎の好みではないが、好きな人は好きだろう。


 ながめているうちに、けっこう奥まで移動していた。

 扉がある。

 そこからさきは画家のプライベートゾーンだ。さすがに勝手に入っていくわけにはいかない。


 しかし……なんだろうか?

 なぜかはわからないが、やけにその扉が気になる。

 香り……?

 そう。ひじょうに心地よい魅惑的な香りがただよう。


(この香り……なんだか……)


 青蘭は純粋な意味では人間ではない。肉体は悪魔の細胞をもちいてゲノム編集されたもの。そして魂は天使の生まれ変わり。

 だから、そのせいだろう。

 体臭が花のように甘い。

 香水とも違う独特な香りがあるのだが、それに近い芳香をかぎとった。


(天使がいるとか? まさかな)


 しかし、エクソシストの組織のリーダーであるリエルが、じつは人間に化身した天使だったと知ったのは、つい最近だ。もしかしたら、龍郎が思っているより、現世に降臨している天使は多いのかもしれない。


 天使だとしたら、龍郎たちのようすを観察するために接触してきた可能性が高い。


 今のところ、リエルは龍郎たちに協力的だが、本心は龍郎や青蘭の体内にある賢者の石を、一刻も早く回収したいのだろう。ずっと味方でいる保証はないのだ。いつ敵にまわるかわからない。先手を打って正体をつかんでおきたいと考えた。


 龍郎は黒川がデッサンに専念していることを確認すると、そっとドアノブに手をかけた。

 カチャリとドアがひらく。

 なかは薄暗い。

 コンクリートむきだしの細い廊下。

 二メートルもないつきあたりに、またドアがあった。そこから香りが強くなる。まちがいなく、その扉の内に香りの源がある。


 少し良心はとがめたが、決心をかためて扉の前に立った。


 ここに天使がいるのだろうか?

 ドキドキしながら、扉をあける……。

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