第九部 組みかえられた鏡

第七十四話 絶望するパンドラ

第74話 絶望するパンドラ その一



 それは、とつぜんだった。


「龍郎さん。銀行、行きましょう。今月の龍郎さんの給料を振りこまないとね」

「ああ、うん」

「龍郎さんにボクの愛を注入〜」

「なんか言いかたがエロいよ。青蘭」

「いっぱい、つっこむよ」

「だから言いかたが……」

「ティンダロスでもボクを助けてくれたから、危険手当で五億くらい行っちゃう?」

「ごっ、五億? 怖いよ」


 試用期間の給料は二百万だったが、正式に雇用されてサラリーは十倍にはねあがった。さらには、青蘭は気前のいい雇いぬしで、ひんぱんに特別手当をつけてくれる。これがまた、三千万とか五千万とかの尋常ではない金額なので、ふつうにATMから振込むには、かなり面倒なのだ。

 一回に振りこめる限度額は生体認証付きの特殊なカードでも、銀行ごとに五百万とか一千万とか。

 なので、青蘭は窓口から送金することが多い。


「青蘭。帰りに美術館よろうか。今、特別展やってるらしいよ」


 バリより帰ってきてからというもの、平穏な毎日だ。今年に入ってからずっと邪神の世界に乗りこんだり、魔界へ行ったり、地下の実験室を調べたり、怪奇な村で大量な霊に遭遇したりしていたので、平々凡々な日々のありがたみを痛いほど実感する。


 龍郎はデート気分で青蘭と二人、出かけていった。が、銀行についたとたん、それどころではない事態に……。


「この口座は現在、凍結されていますね。お取引きができません」


 ゼロがたくさん並びすぎて、パッと見いくらかわからない青蘭の通帳を、銀行員は遠慮がちに返却してくる。


 出かける前は「龍郎さんにボクの愛を注入〜」なんて、ふざけたことを言っていた青蘭のおもてが急速に青くなる。


「凍結? そんなわけないんだけど。だって、バリに行く前は使えたよ?」

「申しわけありませんが、お取引きの銀行でちょくせつお問い合わせしていただいたほうがよろしいかと存じます」

「わかった……」


 地方にある大手銀行の支店のなかの特別室だ。青蘭の資産は数兆円らしい。このくらいの大金持ちになると、銀行からのあつかいも違う。

 革張りのソファーに腰かけたまま、青蘭はポケットに手を入れた。とりだしたのは、もちろんスマホだ。

 第一秘書と登録された番号に電話をかける青蘭を、しばらく龍郎は見つめる。が、つながらないようだ。


「変だな。ガストンのやつ、ボクからの電話に出ないなんて」


 文句を言いつつ、第二秘書と登録された番号にかけなおす。今度は通じた。


「——そう。メインで使ってる口座が凍結されてるんだけど、どういうこと? それにガストンと連絡とれない」


 日本語でしゃべっている。


 あとで聞いたところによれば、青蘭には第三秘書までいた。第一、第二は国際弁護士で一人はアメリカ人、もう一人は日本人。第三秘書はアメリカ人の税理士とのこと。


 そういえば、いちおう清美も青蘭の秘書として雇われているので、第四秘書になるわけだ。青蘭が旅行に行くときの乗り物や宿泊先の手配、海外なら現地の通貨と日本円の交換ほか、日常生活に関する雑事を任されている。ああ見えて、清美は意外と優秀だ。


「……うん。とにかく急いで。ガストンと連絡ついたら、ボクに電話するよう伝えて」


 とりあえず、電話を切ったものの、何が起こっているのか、皆目見当がつかないらしい。


「しょうがないから今日は帰る」

「そうだね。美術館に行く?」

「行ってもいいけど、ボク、カードが使えないってことだよね?」

「そのくらい、おれが出すよ」


 口座を凍結されるのは、普通はそうとう長い期間、放置していた場合だ。銀行に頼めばすぐに解凍してくれる。しかし、青蘭はつい最近に使用しているから、そういう単純な理由ではなさそうだ。すぐにどうにかなる問題ではないようなので、その日はひきさがった。


 そのあと、龍郎が運転する軽自動車で美術館へ移動した。M市には大きな湖があり、そのほとりに面して美術館が建っている。館内のガラスの壁面から見える夕景がとてもキレイだ。常設展のほか、年に数回の特別展も催される。


「青蘭と来るのは初めてだっけ?」


 龍郎がチケットを購入して、手渡しながら尋ねると、青蘭は大理石を刻みこんだように麗しいおもてを険しくする。


「それって、ボク以外とは来たってこと?」

「そうじゃないよ。M市に住んでるかぎりは遠足とか、学校の仲間で来るからさ」

「ふうん……」


 なんだか、青蘭の表情が浮かない。

 全財産を凍結されているのだから当然と言えば当然なのだが。とても名画を楽しむ気分ではなかっただろうか。


「青蘭。心配なら今日はもう帰ろうか?」

「見る。龍郎さんとデートする」


 言い張るので、そのまま館内へ入った。

 特別展のタイトルは『恋人たちのロマンス』だ。オルフェウスとエウリュディケや、プシュケとアムールなど、恋に題材した西洋画が集められている。アカデミックなものが多いが、印象派やシュールレアリズムなどの比較的最近の絵もあった。恋人とならんでながめるには最適である。


 たっぷり二時間はかけて順路をまわったあと、館内のカフェでひと休みした。

 出かけたのが昼すぎ。

 銀行でも一時間かかっているから、ぼちぼち日が傾いてくる。

 まだまだ暑いが、日は短くなりつつあった。


 美術館の売りの夕焼けの湖を見るには、あと一時間くらいは必要だろうか。


「帰る? それとも、もうちょっと見てみる?」

「うちに帰るとウルサイよ。二人でいたいな」


 近ごろ、カエルの妖怪と狼の姿の魔王が家に住みついてしまった。おまけに人間の戸籍を持つ魔王穂村まで、ひんぱんに出入りするので、自宅がどうにも、にぎやかだ。


「じゃあ、常設展でも見てみようか」

「うん」


 常設展はM市に由来する画家の絵が飾られていた。ルノワールやピカソにくらべればマニアックなので、観覧者の数はそれほど多くない。


「この絵、なんだろう? ホラー映画みたい」と、青蘭が言うのは、小さな箱を持って黒い涙を流すモノクロの油絵だ。あまりリアルなタッチではないのが救いではあるが、たしかにちょっと怖い。


「ムンクっぽいなぁ」

「ムンクって、どんなのだっけ?」

「ほら、こんなふうに両手で顔をはさんでヒョロっと叫んでるやつ」


 龍郎が青蘭のために『叫び』のマネをしていると、どこか近くから忍び笑う声が聞こえた。


 見ると、となりに男が立っていた。

 龍郎たちと同じ絵を見ていたようだ。

 ひとめ見ただけで印象に残る風貌だ。

 着ているものはシンプルな黒いスーツの上下なのだが、天然っぽい巻き毛ブラウンの髪を長く伸ばしている。M市あたりで長髪の男は珍しい。

 肌は青ざめて見えるほど白く、顔立ちは西洋風だ。あるいは外国人かもしれない。


 美形は美形だ。

 それにしても、どこかで会ったかなと龍郎は思った。なんとなく、誰かに似ている。


「それはね。箱の底に残っているはずの希望がないことに気づいたパンドラです。人間が絶望した顔ですね」と、たずねてもいないのに語ってくる。


 龍郎は困惑した。

 その表情を見たのか、

「ああ、失礼。その絵を描いたのは、おれなので」


 そう言って、男は名のった。

黒川水月くろかわみづきです。以後、よろしく」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る