第七十話 まがった時、とがった時

第70話 まがった時、とがった時 その一



 ハッと目覚めるような感覚とともに、龍郎は現実に戻っていた。

 穂村が窓から外をのぞいて、見張りの警官を説得しようとしている。

 天井のすみにはもう、あの変な空間はない。時計を見ると一分と経っていなかった。


 どっと疲労感に襲われ、龍郎は壁にもたれる。

 あの犬のような化け物。

 確実に倒した。

 だが、一匹だ。村で聞いた遠吠えはもっと多数だった。ほかにもたくさんいる。アレが全部、村人を襲うのだとしたら、一匹残らず退治しなければ。


 床に置いたままのペットボトルを手にとり、龍郎はミネラルウォーターの残りをいっき飲みした。

 気をとりなおして、穂村のうしろから窓をのぞく。

 村の不穏なふんいきは変わりがなかった。どこからか悲鳴のようなものが聞こえる。


「穂村先生。やっぱりおかしい。村で何か大変なことが起こってる。早く、なんとかしてください」

「そんなことを言ってもだね。バリで警官を買収すると、万一その警官に訴えられたとき十年の懲役だよ、君」

「そんなのあとでフレデリックさんになんとかしてもらえばいいじゃないですか」

「それもそうか。偉大なれ、金の力」


 穂村が財布を出して札ビラを切ろうとしたときだ。

 森のなかから複数の人影が現れる。

 異様な集団だ。

 みんな、体が光っている。ほのかに青いその色は、まるでさっき龍郎が異次元空間で見た化け物のようだ。あのカマキリのような、犬のような、怪獣の形をしたサボテンのような生物を覆っていた粘液の色だ。


 目をこらして、龍郎はその人たちを観察した。ひどく生気のない顔つきだが、村の人のようだ。それにしても肌色が死人のように青ざめている。全身が発光しているのも奇妙だ。


 穂村がつぶやく。

「マズイぞ。ティンダロスの混血種だ」

「なんですか? それ」

「ティンダロスの猟犬を覆う粘膜はそれじたいが生物なんだ。その粘液にふれられると、人はティンダロスの混血種になる」


 龍郎はまずティンダロスの猟犬がわからなかった。スマホは圏内なのでネットで調べてみる。

 とがった時間から現れる猟犬のような性質を持った謎の生物——

 まさに、さっき龍郎が倒したあの怪物だ。


「先生。さっき、おれ、猟犬に襲われました」

「そうか。やはり、この村に跋扈ばっこしてるのはヤツらか。ティンダロスの猟犬はヘルハウンズが進化したものだ。ヘルハウンズの現れるところには追ってくることがある」

「じゃあ、あの村人たちはティンダロスの猟犬に捕まって、粘液に侵されてしまったと?」

「そういうことだな」


 話しているうちにも、青白い村人が近づいてくる。のろのろした動作がゾンビを思わせた。


「な、な、なんだ。おまえたちは。あっちへ行きなさい。妙なことをすると逮捕するぞ」


 見張りの警官がたじたじとあとずさる。だが、村人たちに変化はなかった。表情は死んだように虚ろで、白目をむいた目には何も映っていないだろう。よく見れば、そのなかには昼間、龍郎たちを追いかけてきた人もいた。あのときはふつうの人間だったのに、今はもう違うのだと、ハッキリ見てとれた。


「何してるんだ。早く逃げないと、あなたもやられますよ——と警官に言ってください。先生」

「うむ……と思ったが、もう遅いようだ」


 穂村の言うとおりだ。

 警官の一メートル手前まで迫ってきた村人が、とつぜん警官にとびかかった。かみついたり、叩いたりなど、攻撃をするふうではなかった。ただ警官の肩に手をかけたのだが、その接触点から汚い粘液がじわじわと広がり、警官の背中を染めていく。またたくまに、すっぽりと全身を覆った。


 つかのま、警官は立ったままビクビクとケイレンしていた。水中で溺れる者のように、酸素を求めてあがくのに似た挙動をする。


 が、それもほんの数秒のことだ。

 ケイレンがおさまると、警官はクルッとこっちをかえりみた。瞳が裏返り、ぼんやり口をあけた表情。ティンダロスの混血種だ。警官も村人たちと同じものに変化してしまった。


「穂村先生……どうしますか?」

「うーん。私が混血種になったら、本体の魔力で体をあやつれるんだろうか? ちょっと試してみたい気もするが、人間としての戸籍がなくなってしまうのも惜しいなぁ」

「そんなこと言ってる場合ですか」

「逃げよう」

「どうやってです?」


 考えあぐねても、ドアは一つ。鍵がかかっている。窓は小さすぎて人間の出入りには向かない。


 困りはてているうちに、外から衝撃があった。ティンダロスの混血種になってしまった村人たちが、ドアに体当たりしている。どうやら知能が大幅に低下してしまうようだ。見張りの警官は錠前の鍵を持っているのに、それを使ってドアをあけようとは思いいたらないらしい。


 くりかえしタックルされて、やがてドアが破壊された。蝶番から外れて、ガタンと床に落ちる。


「穂村先生。さがって!」


 のそのそと入ってくるゾンビのような人々の前に、龍郎は立ちはだかった。穂村を背中に押しやり、右手を高くかかげる。


 苦痛の玉が熱く輝く。

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