第69話 猟犬 その七



 壁と壁、壁と天井のまじわる鋭角から、何かがやってくる。


 まるでそこに扉があるかのように、ペロリと空間がめくれ、舌のようにたれさがっている。


 その奥に目があった。正しくは、だ。妙に角ばって丸みがない。アーモンド型というより、横に長いひし形だ。ひし形の中心にさらに細い縦長の赤いひし形があった。それが虹彩のようだ。


「ほ……穂村先生。あれ、見てください。先生——」


 穂村に話しかけるものの、龍郎はその瞬間、空間が間延びするのを感じた。

 次元の異なるどこかへ移動するときの感覚だ。これまでも魔界や邪神の結界のなかへ転移したとき、空間が水飴のように伸びていくのを感じた。アレだ。


 やがて、間延びしていた空間が、ブツンと切れた。現実世界から絶たれた。自分が異次元につれてこられたと、龍郎は悟った。


(部屋のすみの鋭角。これか。昨日、青蘭をつれさった場所は!)


 ということは、この世界のどこかに青蘭がいるのかもしれない。

 龍郎はむしろ、闘志が湧きあがった。とたんに右手のなかに退魔の剣が形をとる。


 は鋭角から現れ、その全身をさらした。

 なんだか説明しがたい異様な何かだ。全身に曲線が一つもない。すべてがカクカクと尖った線でできている。いびつな多面体でできた頭部と、同じく歪んだ多面体の胴体、そして四本の恐ろしく長い棒状の足のようなものでできている。頭部や胴体には無数の針が突出していた。


 カマキリを思わせる頭部と、人間を複雑骨折させたような不自然な胴体。それに、長い長い鉄棒のような足。ただし、その足も円柱ではなく、よく見ると六角形のようだ。足の先端は一メートル近くもある四角錐しかくすいだ。要するに、規格外に細長いピラミッドを逆さまにした形である。するどい尖端で地面をつき刺しながら、龍郎のほうへにじりよってくる。


 全体の大きさは七、八メートルだろうか?


 じたいは黒っぽい鉄に苔のような緑がまだらに付着した物体だが、全身を薄く、青白く発光するゼリーのようなもので包まれていた。ときおり、ボトリ、ボトリとそのゼリーがたれおちる。そのたびに腐ったような不快な匂いがした。


 なんとも気持ちの悪い生き物だ。

 生理的に好きになれない。

 死体が動いているかのような違和感。


 は多角形のカマキリのような頭部をパックリとあけた。顔のまんなかに蝶番があって、そこを基点に開閉しているのが口のようだ。口のなかには平らな三角のギザギザが大小無数に生えている。


 うう、とがうなった。

 信じられないが、は犬のような声を発した。昨夜からの犬の吠え声は、こいつのものだったのだ。


 龍郎はじりじりとあとずさる。

 せまい木造の小屋のなかにいたはずなのに、周囲は見たこともない景色に変わっていた。


 青白い光を放つ廊下とも洞窟ともつかない場所だ。半透明のガラスのような膜で覆われていて、その下に尖った四角錐が先端をむけてビッシリと配置されている。建物を支える柱なのかもしれない。尖端恐怖症なら悲鳴をあげて逃げまどっているところだ。


 なぜかわからないが視界に入るすべてが不快感をあおる。心の安まる要素がどこにも一つもない。むしょうに神経がピリピリする。黒板を爪でひっかくときのあの音のように、世界の存在そのものが、龍郎の五感を攻撃してくる。


 とつぜん、カマキリのような犬のようなが、スッと四つの足を体の中心に集めた。次の瞬間、今度はそれらの足をいっきに弾けるように広げる。すると、水面をすべるアメンボのように、は体一つぶん、こっちに近づいてきていた。まるで瞬間移動だ。

 は足を開閉するその動作をくりかえし、ススッ、ススッと迫ってくる。


 龍郎は本能的に逃げた。

 に捕まるとマズイと直感する。

 に背を向け、夢中で駆けた。

 はグングン迫る。

 空気の振動を背筋に感じた。

 龍郎が一歩進むうちに、むこうは十数歩ぶん進んでくる。

 サバンナで猛獣に追われても、ここまで冷や汗をかかなかっただろう。


(ダメだ。逃げきれない!)


 龍郎は覚悟を決めてふりかえった。

 は龍郎のすぐ背後にまで迫っていた。

 異様に平べったいカマキリのような頭が、かえりみた龍郎の顔面に接しそうなほど間近にあった。


 は龍郎を射程にとらえたことを認知すると、狂喜するように二本の足を高くかかげ、馬がいななくようなポーズをとった。


 龍郎の脳裏にあの映像が浮かびあがる。昨夜見たグスティの悲惨な遺体。全身がひからび、茶色い木のようになった体の胸にあいた四つの穴。


 こいつがやったのだ。

 この長い長い槍のような足が、立て続けにグスティに襲いかかった……。


 龍郎はグスティの生前の姿を一度しか見ていない。それも遠くから、チラリとだ。このあたりの女性のごくふつうの普段着だった。質素な白いブラウスと色あせた紺色のサロンをまとっていたような気がする。顔もよく覚えていないが、友達たちと同様に若くしなやかな体つきだった。


 あの女性の生涯を一瞬で奪ったのだ。この化け物が。


 グスティだけじゃない。

 その前夜にはディンダも。

 二人とも、こんなにも早く自分が死ぬなんて予想もしていなかっただろうに。


 そう思うと、怒りがこみあげてきた。


「うおおおーッ!」


 龍郎は剣を両手でにぎりしめ、にむかって突進する。

 を覆う粘膜のような青いものが薄く広がり、龍郎を包みこもうと伸びる。

 だが、龍郎が剣を一閃すると、その剣圧で青い粘液はボロボロと崩れおちた。

 龍郎の剣の放つ青と、その粘液の青ではまったく色あいが違っていた。ドロドロに濁った沼の底のヘドロのような薄汚い青が、透きとおる剣の神気の前に、もろくも燃えつきる。


 はいっそう怒り狂ったようだ。菱形の赤い虹彩が深い憎悪に染まる。は龍郎を憎んでいる。理由はわからないが、現れたときからそうだった。


 の尖った足と、龍郎の剣の切っ先が、真っ向からぶつかった。

 衝突した点と点がせめぎあう。


 ティンダロス——と、その化け物は告げた。言葉にはならない思考が剣を通して伝わってきた。


 ティンダロス。わが故郷。大いなる不浄の地。

 まがった者どもは皆、死すがよい、と。


 龍郎の世界とは、あまりにも何から何まで違いすぎる、おぞましい映像が脳内に流れこみ、精神を破壊しようとする。


 だが、龍郎は負けなかった。

 ほかの何よりも美しい、愛する人の姿を心に思い浮かべるだけで、心は幸福に満たされる。


 その映像は逆ににとって恐怖そのもののようだった。一瞬ひるんだすきに、龍郎は剣を押しこんだ。キンと金属的な高音を発し、刃はの足をくだき、腹をつらぬいた。


 音を立て、が崩壊する。

 世界が遠くなるのを龍郎は感じた。




 了

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