第63話 ラボへの道 その三
落下が待ち受けていると思っていたので、扉をくぐりぬけたとたん、龍郎は転んだ。その背中に青蘭がかぶさってくる。
当然だ。
扉の向こうは草原になっていた。
足を動かさなければ、転ぶに決まっている。
草原では豹のようなものに追いかけられて、とにかく走った。
あやうく足をかじられるところだったが、どうにか次の扉に駆けこんだ。
そのさきはミニチュアの世界だった。カラフルな岩だと思ったものが、すべて小人の住居で、なかにはネズミのような人間のような何かが集まっていた。
小さな剣を手に追いかけてくるので、ここでも走って逃げまわった。
いくつもの世界を通りすぎた。
奇妙な生き物がたくさんいた。
上級から低級まで、すべて悪魔だ。
好戦的で見るからに邪悪なものもいれば、マダムのように近よりがたくはあるものの清らかな空気のものもいた。
美しいものも醜いものもいた。
果ての見えない図書館には宇宙に存在するあらゆる本がおさめられ、見たこともない花が華麗に咲き誇る庭園もあった。
大小さまざまな鳥かごが実のようにつらなる巨木には、全身を羽毛に覆われた悪魔がいた。人型の悪魔だ。とても優美で、うっとりするような歌声を響かせていた。
天使に似た悪魔。
もしかしたら天使は、ああいう生き物をもとに造られたのかもしれない。
ほかにも数えきれない世界を通った。
戦闘も数多くあった。
この旅のあいだだけで何年もすぎたような気がする。
どこか中世の王宮のようなところを走りぬけていたときだ。
いくつめかの扉をあけ、なにげなくなかへ入ろうとした龍郎は、ハッとした。
見知らぬ不思議な世界を旅しているつもりだったのに、そこに見たことのある風景が広がっていた。
地下室だ。
青蘭が少年のころ、火傷の治療と称して閉じこめられていた診療所の地下。
以前、青蘭と二人で調べに行ったことのある、あの場所だ。
「なんで、魔界にこの実験室が……」
「龍郎さん。行ってみよう」
「ああ。そうだね」
吹きつけるように、冷気が足元から漂ってくる。
地下への階段をおりる。
以前、調査に行ったときは、施設に電気が通っていなかった。しかし、今はこうこうと照明がついている。
明るい光のもとで見るのは初めてだ。
「これ、あの隠し階段だね」
「うん。天使の卵がたくさんあったところだ」
アンドロマリウスの体を使って造られた擬似天使の卵。
床にビッシリならぶ卵を見て、あのとき、青蘭は気分が悪くなった。
龍郎は手をにぎる手に力をこめ、青蘭をうかがう。
青蘭はかたい表情をしてはいたが、『大丈夫』と言うようにうなずく。
龍郎を先頭に、地下への階段をおりていく。
行き止まりに、もう一つ扉があった。
小さな鉄の扉。
そっとノブをまわす。
なかから、赤い光がもれる。赤外線の照明だ。その熱で天使の卵をあたためているのだ。
「あけたなら早くドアをしめたまえ。卵はとてもデリケートなんだ」
男の声がした。
おどろいて、声の聞こえたほうを見る。白衣を着た背中が奥に見えた。床を埋めつくす天使の卵の向こうに、デスクが置かれている。そこに男がいた。
「……フォラスか?」
青蘭の手をにぎったまま、龍郎は卵のすきまを通って近づこうとした。が、青蘭が青ざめた顔で立ちつくしたまま、動こうとしない。意を決しては来ても、やはり気持ちのいい光景ではないのだ。
しかたないので、そこでいったん止まる。
ドアは最後に入ってきたマダムが閉めた。マダムは侮蔑するような目で、実験室のなかをながめている。扇で顔を隠し、天使の卵にも研究にも興味はなさそうだ。
白衣の男はうしろ姿だけでも、かなり体格がいい。広い背中、服を通してもわかる筋肉の盛りあがり。身長もそうとう高いだろう。
なんだか、その姿に覚えがある。
龍郎自身はじかに会ったことはないが、青蘭の記憶のなかで見た。
男がゆっくりとふりかえる。
そう。やはり、思ったとおりだ。
男は青蘭の主治医だった柿谷だ。
アンドロマリウスの実験の協力者である。柿谷はフォラスではなかったのではないかと、マダムは言ったが、じっさいはどうなのだろう?
「そう。私がフォラスだ。しかし、君たちの時間流から言えば、過去の私だな。二十年ていどの時間の壁がある。途中で家臣をこの姿に化身させ、私自身は別の研究をしていたのではないかな。おそらく」
あの現象だ。
時間を超えて、アスモデウスと対面した。あのときと同様のことが起こっている。魔界はさまざまな結界が重なる世界だから、時間や空間がゆがみやすいのだろう。
「二十年……じゃあ、まだ青蘭が誕生する前か?」
「私の実験は成功したのだな。じつに美しい天使だ。さぞや、アンドロマリウスが喜んだことだろう」
「教えてくれ。アンドロマリウスは自分の体を使って天使の卵を作った。でも多くの卵は
「まあ、そうだ。そのための実験なのだからな」
「止める方法はないのか?」
フォラスはふたたび、龍郎たちに背を向けた。なんだか、ふんいきが以前に見た柿谷と違う。やはり少年の青蘭を弄んでいたあの山羊の悪魔は、フォラスではなかったのだろう。フォラスの配下だ。
フォラスはデスクの上のノートに、何やら難しい数式を書きこみながら答える。
「止めてどうなる? これほど壮大な実験はかつてなかった。青年。君は
「たしか、中国の呪術でしたか?」
「そう。一つのツボのなかに百匹の毒虫をなげこむ。虫たちが殺しあい、最後に残った一匹に百匹ぶんの猛毒が宿る。その虫の毒を呪いたい相手の飲食物にまぜて殺す。まあ、ざっくり言えばそんな呪いだ。天使はアレに似ているな」
「天使が毒虫といっしょ?」
「天使はつがうたびに数が半減する。最後には一人が残るだろう? その一人は、それまでに誕生し、死したすべての天使の力を生まれながらに有している。それはもう新たな神だ」
「……でも、アンドロマリウスの目的はアスモデウスを復活させたいだけのはずだ」
「アンドロマリウスはな。しかし、もともと天使というものが、そういう能力を内包する存在なのだ。アスモデウスが追放されたことじたい、ノーデンスの策略かもしれない。アンドロマリウスは一途な想いをヤツに利用されている可能性が高い。それでもかまわないと、アンドロマリウスは言うだろうが。
しかし、この計画には多くの思惑が入り乱れている。ノーデンスの思いどおりには行くまい。結果がどうなるかは、私にもわからん。宇宙開闢以来の驚天動地になるだろうよ。勢力図は書きかえられる。それだけではない。宇宙のありかたが変格するかもしれん。私もアンドロマリウスも、そのなかの駒の一つにすぎんね」
「……どうにも、なすすべがないと?」
「どうしても止めたければ、快楽の玉を体内からとりのぞく手術をしてはどうかね? それしか方法はないだろう」
「でも、それじゃ、青蘭は傷跡が……」
「ならば、成り行きに任せる。二者択一だ」
聞きたいことはたくさんあるのに、急速にフォラスの姿が遠くなる。
暗闇があたりを押し包んだ。
了
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