第六十四話 毒公女

第64話 毒公女 その一



 周囲が暗い。

 停電か?

 いや、急にぼんやりと明るくなった。が、そこはもう実験室ではない。何者かの胎内に入りこんだように、血管の透けて見える肉の壁にかこまれている。こぶのようなものが、ときおりシューッと紫色のガスを噴いた。


 なぜ、とうとつにこんなことになったのだろう?

 フォラスの仕業か?


 でも、さっき話してみた感じ、フォラスは知的な男のようだった。それも知の探求以外の駆引きなど意に介しないタイプ。

 真理に対して忠実であり、冷徹にも見えるが、意味もなく他者を襲ったり傷つけることはない。なぜなら、その時間が惜しいからだ。研究の時間をそんなことにまわすことをくだらないと思考する。


 フォラスが龍郎たちを襲うつもりなら、最初からムダな会話などしていなかっただろう。その時間を研究で有効に使うために。


(じゃあ、なぜ、こんなことになった?)


 龍郎は四囲を見渡し、青蘭の姿を探す。手をにぎっていたはずなのにいない。


「青蘭。どこだ? 返事してくれ」


 呼びかけるが、愛しい人の声は聞こえない。


 龍郎は必死に青蘭を探した。

 かたわらに自分以外の存在を感じていた。何かがいる。それはたしかだ。


 耳元で誰かがささやいた。



 ——気をつけろ。女神は相手のもっとも美しいと思う姿で現れる。



(フォラス?)


 なんらかの危険を忠告してくれたようだ。しかし、それを最後にフォラスの気配は急速に遠のく。どうやら尻尾を巻いて逃げだしたらしい。


(女神? フォラスが恐れるような誰かか?)


 警戒していると、周囲にわらわらと低級な悪魔が寄り集まってきた。一つ目の熊や、人のようなカラスや、蛇の尻尾の猿などが、さわがしく湧いてでる。


「おいおい、そっちへ行ったぞ。逃がすなよ」

「待て。待て。あわてるな。こういうのは、ちょいと遊んでやったほうがいいんだよ。そのほうが本番がもっと楽しめるだろ」

「逃げられたら元も子もないじゃないか」

「こんな美味そうなご馳走を逃がすかっての」


 下卑た笑い声のなかに悲鳴が重なる。

 青蘭だ。

 青蘭が悪魔たちに襲われている。


「青蘭! どこだ? 青蘭!」


 あわてて走りだすが、肉の壁がこまかく枝分かれして迷路のようだ。太い血管の柱や気泡のような形状のものに覆われて袋小路になっているところも多い。


「青蘭!」

「助けて! 龍郎さん!」


 声は近くで聞こえる。

 だが、そこまで行きつくのに何度もまわり道しなければならなかった。気ばかりあせって、なかなか青蘭のところまで到達できない。


 不安をあおるように、悪魔たちの笑い声が聞こえる。


「よっし! 捕まえた!」

「いい匂いがするなぁ」

「おまえ、ヨダレたらしすぎだぞ。獲物が汚れるじゃないかよ」

「ヨダレだって出るさぁ。こんな上物、ひさしぶりだぜ」

「逃げられないように手足ちぎろうぜ」

「血が……血が見たい」


 憤激で頭が沸騰しそうなことを悪魔たちは話している。

 やみくもに走りまわって、ようやく、袋小路の奥に追いつめられた青蘭を見つけた。全身を獣毛に覆われ、コウモリの羽を持った悪魔たちにかこまれている。

 悪魔たちは今まさに、青蘭の両手を左右からつかみ、ひきちぎろうとしていた。


 龍郎は言葉にならない叫びを発しながら駆けた。


 全部で十匹近くいただろうか。

 タタタッとヤツらの背後まで走りよったときには、すでに退魔の剣をにぎりしめていた。ふりあげるときの剣圧だけで数匹が溶ける。退魔の剣の起こす風は、それだけで低級な悪魔に酸をあびせるのと同様な効果をもたらすようだ。


「青蘭を離せッ!」


 悪魔がギョッとしているうちに切りこむ。

 もはや低級悪魔など、龍郎の敵ではなかった。

 牙をむいてとびかかろうとする一匹をけさがけに切りおろし、青蘭の手をつかんだヤツの頭部を、剣の柄で思いきり殴る。刃をふりおろすと、青蘭にも届いてしまう距離だからだ。


 残るは一匹。

 龍郎を見ても逃げもせずに、ぼんやり立っている。姿はほかの悪魔たちとそっくりだが、コイツだけ挙動がおかしい。


「やめて。ボクを殺すの?」と、命ごいをする。


龍郎は困惑した。が、青蘭が懇願してくる。


「龍郎さん! 早く、そいつも倒して! 何してるの? 龍郎さん。早くしないと襲ってくるよ」

「うん……」


 すると、悪魔が吠えるような声を出す。

「龍郎さん。どうしたの? ボクはこっちだよ」


 姿形はどう見ても醜い獣人だ。

 ごわごわの獣毛に覆われた顔面。

 口から長い牙がアゴの下まで伸びている。黄色い獣の虹彩の目は、白目の部分が真っ赤だ。


「龍郎さん」と、青蘭がいぶかしむような声を出す。

「悪魔に惑わされないで。ボクらをだまして、油断したすきに襲ってくる気だよ」


 獣人も負けずに言い返してきた。

「龍郎さん。そいつを信じちゃダメだ!」


 するとまた、青蘭が、

「ひとめでわかるはずだよ? そんな獣がボクなわけないでしょ?」


 龍郎は両側から責めたてられて困ってしまった。


 いったい、これはどういうことだろう?

 自分の頭がおかしくなってしまったのだろうか?


(なんだかクラクラする。あの壁のこぶから噴出するガスのせいだ。毒なのかもしれない……)


 龍郎は頭をふって気力をふりしぼった。

 ここで惑わされてはダメだ。


「龍郎さん。しっかりして!」

「龍郎さん。早く悪魔を退治しようよ」


「そう……だな。悪魔は退治しよう」


 龍郎は退魔の剣をとりなおした。

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