第8話 忌魔島奇譚 その十三



 とてつもなく巨大な化け物。

 それは、ひとめ見ただけで、気の弱い者なら狂ってしまうような代物だった。人間の美意識の真逆をいった生物。

 いや、地球上の生命体とは思えない。

 どこか遠い外宇宙からやってきた、独自の進化をとげた生物なのかもしれない。

 でなければ、この形状は、地球上の生物への冒涜ぼうとくだ。


 全体の形はたこだ。

 しかし、その足は八本どころか、千か二千か、数えきれないほどあり、さらには全身のいたるところから、見ていられないような、おかしなものが生えている。それは鱗の生えた人間の足のようなものだったり、腕だったり、腸のようでもあり、巨大な目玉だったりする。しかも、その目には狡猾な叡智えいちがハッキリと見てとれる。人間を虫けらとしか見ていない目だ。


 とにかく、見れば見るほど吐き気をもよおす。正視はできない。

 瞬時にそれと見て、龍郎は目をそらした。それでも、ほんのまたたきの瞬間しか見ていないはずなのに、おこりがついたように、ふるえが止まらない。アレの瘴気を浴びたせいだ。


(あれが……大神……人魚たちの親か)


 龍郎は青蘭の肩を抱き、祭壇のうしろに隠れた。とっさのその判断が二人の命を救った。


 直後、存在することじたいが汚穢おわいでしかないソレが、無数の触手を伸ばし、湖岸で立ちつくす女たちを捕まえた。

 女たちの何人かは、すでに狂っていた。正気とは思えない目をして、ケラケラ笑っている。泣き笑いしながら、女たちは触手に巻きつかれ、大神のもとへたぐりよせられていく。


 血の祭りだ。

 生贄の儀式が始まるのだ。

 阿鼻叫喚の幕開け。


 しかし、しばらくののち、悲鳴はあがったが、それは恐怖や苦痛のもたらすものではなかった。女たちの口からもれるのは、昨夜の青蘭と同じ。狂った快楽に身をゆだねる声だ。完全に正気を失っている。


 龍郎の耳元で、青蘭がささやいた。

「淫魔だな」

「いんま?」

「そう。淫欲の悪魔だ。淫魔はそのさがとして、人と契り自らの分身を増殖しようとする。この島の名前も、ほんとは魔を忌むではなく、淫らな魔が住みつく島という意味で、淫魔島だったんだろうな」


 淫魔……それは、青蘭のなかにいるという女の悪魔もそうだったのではないか?


 青蘭は龍郎の考えを読んだように、チラリと流し目をくれてきた。こんなときなのに、ドキッとする。


「そうだよ。アスモデウスも淫欲の魔王だ。あいつは天界でヘマをして、自分のほんとの体をなくしてしまったんだ。だから、今、ボクのなかにいる」


 くわしく聞きたかったが、そのヒマはなかった。

 このまま、ここにいれば、いずれ、あの蛸の化け物に龍郎たちも捕まってしまう。龍郎はたぶん喰われるだけだろうが、青蘭はそうはいかない。青蘭の真珠のような肌に、あんな究極に生理的嫌悪をもよおさせる化け物をふれさせるわけにはいかない。


「逃げよう。青蘭。女たちには悪いが、あの人たちはもう……」


 二度と正気には戻らないだろう。

 むしろ、そのほうが幸せだ。

 正気に戻れば、とても生きてはいられない。


 人魚に兄弟が少ないのは、そのせいだろう。父親はみんな同じだから、ある意味、人魚は全員、兄弟のようなものだが、同腹の兄弟は双子などでないかぎり誕生しない。

 なぜなら、母が一度の交わりで死んでしまうから……。

 大神に殺されるのか、自殺なのか、あるいは人ではないものを出産するときの負担で亡くなるのかはわからないが。


 青蘭の手をひいて、龍郎はかけだした。樹間に入ってしまえば、巨大すぎるアレには、人間など目につかないだろう。


 早く。早く。あそこまで行けば——


 もう目前に木立が迫っている。

 あと五メートル。四メートル。三メートル。

 あと少しだ。一メートル半。

 ここまで来れば、跳躍してでも……。


 しかし、そのとき、とつぜん、龍郎の体は宙に浮いた。龍郎の胴くらいの太さがある触手が何重にも体に巻きついている。となりには、青蘭がいた。触手が二人をひと巻きにしていた。

 高速エレベーターに負けない速度で、龍郎たちはあのおぞましいもののほうへ、いっきに引きよせられていく。


「青蘭!」


 せめて、青蘭をこの手で殺してやろう。アレに辱められる前に。

 そのほうが何倍も貴い死だ。

 龍郎は両手を伸ばし、青蘭の首にかけた。

 青蘭は不思議な魔力で、龍郎の魂を永劫に彼女のもとへ縫いとどめるかのような目で、じっとのぞきこんでくる。


「その必要はないよ」

「青蘭?」


 青蘭はきぜんと顔をあげた。

 長い前髪が風になびく。

 白いひたいにある火傷のあとが見え隠れした。


「アンドロマリウス! 契約によりなんじを呼ぶ。我に力を貸せ!」


 虚空にむかって青蘭は叫んだ。

 その瞬間、青蘭の全身が青白く発光した。あの光だ。肉欲に耽るとき、青蘭の内からほとばしる光。

 だが、今は神々しい。

 その光は、青蘭を古代のシャーマンであるかのように、妖しく高貴に輝かせる。


 青蘭の召喚に応じて、どこからか声が聞こえた。

「いいぜ。だが、わかってるな? 今度はどこをおれにくれるんだ?」


 青蘭だ。青蘭の口から、まるで青蘭のものとは思えない太い男の声がもれる。

 その声に応えるのも、青蘭だ。応える声は、いつもの青蘭である。


「腎臓の百分の一」

「そんなんじゃ、やる気になんねえよ。おまえ、アレがなんだかわかってるか? いにしえに封じられた古きものたちの一員だぞ」

「じゃあ、腎臓の十分の一では?」

「見えるとこがいいなぁ」


 青蘭は自分ではない別の誰かと話すかのように一人で会話して、わずかに唇をかんだ。くくく、と笑う声は青蘭のなかにいる“アンドロマリウス”らしい。


「さあ、どうする? もう時間がないぜ? あの蛸にやられてもいいってんなら、おれはほっとくぜ?」

「……わかった。このひたいの火傷のあとを、四分の一」

「半分——と言いたいとこだが、まあいい。そこは、おまえがずっと手放さなかったところだもんな」

「取引成立だ。古きものをやっつけろ」


 青蘭の体が、いっそう眩しく輝いた。

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