第8話 忌魔島奇譚 その十二
覇気の顔には、どす黒い憎悪のほむらが浮かんでいた。
兄弟を殺された恨み。
それは人間の龍郎にも理解できる感情だ。
人魚は人ではないが、でも心までモンスターではないのだとわかった。
彼らにも人と同じ心があると。
「覇気。あんたの弟を殺したことは悪かったよ。でも、殺そうと思って殺したわけじゃないんだ。おれは自分の力をコントロールできない」
「そんなの言いわけだろ」
覇気の姿は動いたように見えなかった。だが、覇気の立つあたりから、何かがすごい速さで飛んでくる。
触手だ。大きな吸盤のついた太い触手が、長い腕のように伸びてきた。
龍郎は木のかげに入りこみ、かろうじてそれをさけた。
しかし、触手は一本ではない。次々に前から後ろから襲ってくる。いつのまにか足元に這いよっていた触手に足首をつかまれていた。ズルズルとものすごい力でひきずられていく。
かたわらの木の幹に頭部を打ちつけそうになって、あわてて体をひねった。それでも触手をふりはらうことはできない。あえなく覇気の前まで引きよせられた。
冷たい目をして、覇気が見おろしている。
「ほんとはもっと苦しめて、指の一本一本から始めて寸刻みにしてやりたかったんだけどな。まあいいよ。おまえの大事な人が、我らの父に犯されながら喰われるさまをながめて、歯がみしつつ、こときれるがいいさ。ほんのちょっとだけ急所は外しておく」
黒い陰影に染まる覇気のおもてのなかで、両の目が赤く光った。
たくさんある触手のなかの一本が、覇気の頭よりさらに上へと、高く高くあがる。蛇がかま首を持ちあげるように、獲物を狙いすましている。
狙いは、龍郎の心臓だ。
射すくめられたように、龍郎は動けなかった。いや、動きじたいが他の触手に、がんじがらめに締めつけられ、封じられていた。
「やめろッ! おまえの弟を殺したのはボクだ。やるんなら、ボクを殺せ!」
青蘭が叫ぶ。
しかし、青蘭も杭に縄を固定され、身動きがとれない。
覇気はチラリと青蘭をいちべつし、皮肉に口元をゆがめた。
「おまえは自分の心配でもしてろ。今夜も楽しい夜になるだろうよ」
青蘭が歯がみするのが見えた。
昨夜の屈辱を思いだしているのか。
青蘭にそんな思いを味わわせていることが、龍郎は悔しかった。青蘭を守ると言いつつ、こんなにもあっけなく倒れていく自分が不甲斐ない。
(ごめん。青蘭。やっぱり、牢屋での力はたまたまだったんだな)
あのときは青蘭を助けたい一心で無我夢中だったから。
ほんとうに龍郎の力だったのかどうかも怪しいものだ。青蘭の体内の玉の力だったのかもしれない。
「すぐにあの世で再会できるさ。安心しな」
覇気は言って、高く持ちあげた触手をふりおろした——
その瞬間、何かが龍郎の上に覆いかぶさってきた。龍郎の胸に生ぬるい
自分の体を盾にして、覇気の触手を受ける繭子の姿を。
「義姉さん……」
繭子は微笑を浮かべ、龍郎を見おろす。その目に、ひとすじの涙が光った。
「さよなら。龍郎さん」
触手に腹部をつらぬかれたまま、繭子は覇気もろとも湖に身をなげた。湖面に真っ赤な血の輪がひろがる。ブクブクと泡がたち、やがて消えた。
「義姉さん……」
人魚も人間も、血の色は同じ。
義姉は真実、龍郎を想ってくれていたのだろう。
(さよなら。繭子。かつて愛した人)
悲しんでいるいとまはなかった。
早く青蘭や生贄の娘を助けて、ここから逃げださなければ。
龍郎は急いで立ちあがり、青蘭にかけよった。
「青蘭!」
「龍郎さん」
一瞬、強く抱きあう。
しかし、すぐに離れて、青蘭の手首を縛るロープをほどく。
「君たちも早く逃げるんだ。海岸にある入り江で救助を待つといい」
木の杭をけりたおし、とりあえず女たちを自由に移動できるようにした。両手が使えないのは不便だろうが、一人ずつ、ほどいている時間が惜しい。
一つの杭に三、四人ずつがつながれていた。四つめの杭を倒していたときだ。
あぶくのおさまっていた湖面が、ふいにまた煮えたつように泡立った。
何かが近づいてくる。
深い水底から。
恐ろしく巨大な何か——
龍郎も、青蘭も、女たちも、そこにいる全員が湖を見つめた。
予測もつかない何かが始まることを、本能的に悟った。
やがて、水面が山よりも高く盛りあがる。湖全体が一つの生物のように膨張し続ける。
それが、現れた。
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