第5話 玻璃鏡 その二



 いっしょに暮らし始めて数日。

 青蘭はまるで空気みたいだ。

 最初はどうなることかと思ったが、わりと居心地はいい。


 青蘭はこっちから話しかけなければ口をひらかないし、テレビも見ないし音楽も聞かない。たまに、いることを忘れてしまう。行儀のいい猫を飼っているようなものだ。


「ただいま、青蘭。今日は夕食、なんにする?」

「お任せします」

「ふうん」


 朝食はトースト。昼間は龍郎が大学へ行くので、青蘭は留守番だ。たぶん、近くのファミレスか喫茶店でも行っているのだろう。合鍵は渡してある。


 まともな食事は夕食だけだが、それも、とくに好き嫌いがあるふうでもなく、出されたものは、いちおうなんでも黙って食べる。


 ただ、反応を見ていると、なんとなく、これは口にあわなかったんだなと思うこともあった。


 一度だけ実家から宅急便で送ってきた、ゴーヤの天ぷらを供したときは、一口かじったあと、ずっと舌を出して龍郎を見つめていた。あれは、きっと「こんな苦いもの食べられない」と心のなかでぼやいていたんだと思う。


「もうすぐ大学が冬休みに入るから、そしたら、手のこんだ料理も作るよ。料理本、買ってこようかなぁ。こんなことなら、もっと練習しとくんだったなぁ」


「別にいいですよ。食べられれば。それより、龍郎さん。昨日、夜中にボクの顔、のぞきこんでました?」

「そんなことしないよ」

「ふうん……」


 なんだか不審の目だ。


「ほんとだって」

「そう? まあいいけど」


 龍郎としてはよくないが、青蘭は話を打ち切った。でも、絶対に信じていないようすだ。


(顔のぞきこむなんて、できないよ。だって……)


 青蘭は夜になると夢にうなされるから。おびえさせると思うと、かわいそうで近づけない。


「じゃあ、今夜は水炊きにしようか」

「鍋ばっかりですね」

「えっ? 飽きた?」

「そうじゃないけど」


 切って煮込むだけの鍋は男の手料理に最適なのだ。味付けは鍋の素かポン酢でいいし、失敗することが、まずない。白菜などの野菜も先日の宅急便で実家から送られてきていた。


「すぐ準備するから、青蘭はシャワー浴びていいよ。それとも湯船つかりたいなら、急いでためるけど」

「じゃあ、ためて」

「はいはい」


 言われるがまま、湯船の蛇口をひねり、食材を切っているうちに、湯のたまったアラームの音がする。


 青蘭が普通に服をぬぎだしたので、龍郎はあわてふためいた。まだ五時半だが、冬場は日の暮れが早い。部屋には電気がついている。外から丸見えだ。脱衣所のない狭いワンルームだから、しかたないこととは言え、青蘭のヌードを通りすがりの人に見せびらかすのは公衆衛生的によろしくない。通りのまんなかでストリッパーがポールダンスするよりディープなインパクトがあるのだ。艶っぽすぎる。


「青蘭! カーテンくらい閉めてからにしてくれよ」


 あわてて、龍郎は窓にかけよった。いや、かけよろうとした。さっそく青蘭のヌードに釘付けになっている愚か者がいる。窓の外に男が立っていた。


 龍郎は憤然として窓辺に近づいた。しかし、男は逃げようともしない。ダウンジャケットを着て、フードを目深にかぶっている。


「おい、あんた——」


 何、家のなか覗いてるんだよと言おうとして、ガラリと窓をあけた龍郎は声を失った。誰もいない。アパートの外はわずかだが植え込みがあり、歩道からそのぶん離れている。家のなかを覗くなら、植え込みのなかに立っていないと、よくは見えないだろう。しかし、歩道の人たちは薄暗い街灯の光のもと、急いで家路をたどるばかりだ。逃げていく人影もなかったし、フードをかぶった怪しい男も見あたらない。


 怪訝に思ったが、龍郎は窓を閉め、急いでカーテンで覆った。とりあえず、人目を惹きつける青蘭の妖しい裸体は隠された。


「気をつけろよ。誰か見てるかもしれないだろ?」

「べつに見られたって困りませんよ?」

「いや、おれが困るんだけど」

「なんで?」

「なんでって……」


 近所の人に絶対、女をつれこんでると思われるからだ、という言葉を龍郎は飲んだ。


「まあいいよ。とにかく、気をつけてくれよ。キレイな女と見れば、蛾みたいに吸いよせられてくる男がいるんだから」


 そのときは、そう思って納得した。


 しかし、夜中だ。

 今夜も青蘭はうなされている。

 その声で龍郎は目が覚めた。


 室内は薄暗いが、最低限の照明は残してある。

 窓ぎわのベッドで眠る青蘭を、外から誰かが覗きこんでいた。カーテンがいつのまにか、少しあいている。そのすきまから、ぼんやりと白っぽい人の形が見えた。


 さては、夕方のあの男だろうか?

 やっぱり青蘭につきまとうストーカーだったのだ。


 寝袋をはいだした龍郎は、サッと歩みよった。だが、窓の外に立っているのは夕刻のフードの男ではない。白髪の老人だ。


(あれ? この老人、見たことがあるぞ)


 そうだ。以前、買い物帰りに部屋をながめたとき、室内に立っていたと思った老人だ——と、龍郎は気づいた。


 龍郎は急いで窓をあけた。

 そのとたん、老人の姿が消えた。

 外は無人の暗闇。冷気が漂っている。しかし、寒気がしたのは、そのせいではない。


 おかしい。人間が走っていく時間なんてなかった。しかも、あんな年寄りだ。


 不自然に思いつつ、龍郎は窓を閉めた。そして、そこに映る人影を見た。遅まきながら、やっと龍郎は気づいた。


(違う。窓の向こうに立ってるんじゃない。これは……)


 老人は窓のにいるのだ。

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