第5話 玻璃鏡 その三



 老人は窓に映る鏡像なのだ。

 暗がりのなかでガラスに光が反射すると、周囲のものが映りこむ。あれと同じだ。窓ガラスに反射して映っているだけ。ただ、そこに映るはずの本体が存在していない。


 まさか、霊だろうか?

 いや、まさかではなく、おそらく百二十パーセント、霊だ。

 だから、本体は見えないんだ。


 龍郎は、そう考えた。


 老人はそのあと、大量の血を口から吐いて消えた。


 気分が悪くなったが、龍郎もこの手の怪異に多少は慣れてきた。相手が攻撃してこないだけ、まだいい。


 青蘭を起こすのも悪いので、寝袋のなかで考える。


 前から、こんなものが見えていたのなら、龍郎だって気づいたはずだ。なにしろ、大学四年間、このアパートで暮らしていたのだ。ということは、老人が見えるようになったのは、つい最近だ。


(そうだ。ガラスが割れて直してもらったあとだ。霊が見えるのは、あのときの窓だしな)


 そう言えば、修理を頼むとき、三十代の男のようすがおかしかった。とりよせないといけないと言ったのに、急に大丈夫だと主張をかえた。


 型が古いガラスだから特注しないといけないと言っていた。ということは、同じ型のガラスがあれば、それで代用できたはずだ。


 たとえば、同じアパートの窓ガラス——とか。


(二階の部屋は住人が孤独死して、改装したって話だ。もしかしたら窓もフレームごと替えたのかも?)


 だとしたら、窓に映る老人は二階で死んだ住人だろう。誰にも看取られず、たった一人で死んでしまったことが悲しいのかもしれない。


 翌朝。龍郎は大学へ行く前に、先日の各務工務店に電話を入れてみた。電話の応対に出たのは、最初にアパートに来たときの一人。二十代の男のようだ。話しかたや声に聞きおぼえがある。


「本柳さん? ああ、この前はどうも。ありがとうございます。また修理ですか?」

「いや、そうじゃなくて、このガラス、どこから持ってきたものですか? うちの上の階のやつじゃないでしょうね?」

「えっと……ちょっと先輩がいないので、よくわからないんですが、何か困ったことでもあるんですか?」

「うちの二階、数年前にリフォームしてるはずなんですが、直したの、お宅じゃありませんか?」

「うん。うちでしましたよ。おばあさんが一人で亡くなったやつでしょ?」


 おばあさん……。

 何か違う。

 窓に映る老人は、たしかに男だ。年寄りのなかには性別がわかりにくい人もいるが、老人はかなり背が高く、老いても彫りが深い。眉毛もしっかりして、どこからどう見ても、おじいさんだ。おばあさんと言われるはずはない。


「……亡くなったのって、おばあさんだったんですか? おじいさんじゃなく?」

「だって、名前が梅子さんだったし」

「ああ……」


 それなら、違う。

 さらに詳しく話を聞くと、窓まではとりかえなかったそうだ。


「どうも、お騒がせしました。ただ、今回の直しで使った窓ガラス、どこから持ってきたものか知りたいので、先輩が来られたら、連絡してもらうように伝えてもらっていいですか?」

「わかりました。先輩、このごろ風邪ひいて長らく休んでるんですけどね。連絡がついたら聞いてみます」


 そのように言われて、電話を切った。

 青蘭が起きてきて、じっと龍郎をながめていた。


「あっ、ごめん。起こしたね。おれ、大学行ってくるけど、一人で大丈夫?」

「うん……」


 青蘭はあの老人の幽霊に気づいているのだろうかと、そのとき、ふと思った。しかし、もう時間がだいぶ押している。このままでは遅刻だ。


「じゃ、行ってくるから」


 とびだして、バスに乗りこんだものの、なんだか、あの部屋に青蘭を一人残しておくことが、やけに気にかかった。青蘭は悪魔退治のプロだから問題はないと思うのだが……。


 昼休み。

 学食のカレーを食べながら、龍郎はどうも落ちつかない。


(どうしよう。青蘭。ちゃんと話してくればよかったな。気づいてるなら、青蘭だって気をつけるだろうし……)


 気になるので、スマホからアパートの固定電話に電話をかけてみた。Wi-fiやらなんやらかんやらコミコミで安かったので、ついでに設置した電話だ。ほとんど使う機会がなかったのだが、初めて役に立った。


 龍郎のまわりでは友人たちが、「彼女に電話?」「龍郎、彼女できたのか?」なんて騒いでいるが、龍郎はそれどころじゃない。


 何度かコールして、やっとつながった。


「あっ、青蘭? 大丈夫か?」

「何がですか?」

「いや、変なことがあったんじゃないかなと」

「別にないですよ」

「……あっ、そう。ごめん。その部屋、霊が出るから」

「この部屋はたくさんいるから、どれのことを言ってるのかわからない」

「えッ?」


 聞きたくないことを聞いてしまった。


「……窓のやつだけど」

「ああ。今日はいないみたい」


 と聞いて、安心したのも、つかのま。

 とつぜん、青蘭が変な叫び声をあげた。電話の向こうで、「あんた、誰?」とか「勝手に入ってこないで」とか、言い争っている。


「青蘭! 青蘭! どうしたんだ? 何があった?」


 呼びかけても答えない。

 青蘭の身に何かあったようだ。

 龍郎はテーブルを叩いて立ちあがる。


「悪い。午後、休む。食器、片づけといて」

「ええ。龍郎。最近、つきあい悪い」

「せいらっての? 彼女。今度、紹介してくれよ」


 彼女じゃないよとツッコミながら、龍郎は走った。

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