第4話 夜に這う その二


 その夜はなかなか寝つけなかった。

 龍郎のシャンプーを使っているくせに、風呂あがりの青蘭は、いやにいい匂いがするのだ。これまでの助手たちの苦悩が思いやられた。これは性癖がどうこうというより、我慢をすることがキツイ。


「青蘭がベッド使えよ。おれは床でいいから」

「風邪ひくよ?」

「前にキャンプで使った寝袋がある」

「そう? じゃあ、おやすみ」


 青蘭は布団にもぐりこんだあと、長いこと、龍郎の顔をながめていた。龍郎が前の助手たちみたいに、夜這いをかけるんじゃないかと危ぶんでいるのだろうか?


「な、なんだ?」

「夜中に、ボクが……」


 何か言いかけて、青蘭は口をつぐんだ。

「なんでもない。おやすみ」


 こっちに背中を向けてしまうので、龍郎もしかたなく寝袋に入った。晩秋のことだ。夜になれば、かなり冷えこむ。寝袋にくるまっても寒気が首筋に迫ってくる。


 青蘭の寝息がやけに耳につく。

 美しすぎる雇い主と共寝するのは、どうにも気まずい。悪いが明日からは、もとどおりホテル住まいをしてもらおうと、龍郎は巨大な芋虫のような姿で嘆息した。


 それでも、いつのまにかウトウトしていたらしい。

 真夜中、何時ごろだっただろうか?

 ふと、龍郎は目がさめた。誰かの声を聞いたような気がした。

 寝袋のなかから這いだして、耳をすます。

 声の主はすぐにわかった。青蘭だ。青蘭がうなされている。


「たすけ……パパ……ママ……熱いよ……」


 ハッとした。

 火事の夢を見ているのだ。

 やっぱり、あれは幻ではなかったのか?

 現実に起きたことであり、青蘭はそのときの記憶のせいで心に深い傷をかかえているのか?


「青蘭……」


 そっとしのびよって、うなされている青蘭の寝顔をのぞきこんだ。長い前髪が乱れて、いつもは隠れているひたいが露わになっていた。


 龍郎の胸がするどい氷の刃でつらぬかれたように軋んだ。

 青蘭の純白のひたいに、赤黒くひきつれた傷痕がある。髪の生えぎわ近くに、ほんの数センチほどだが、完璧な美貌の中では、それは残酷なほど痛々しい。


 間違いない。

 あのときの子どもが青蘭なのだ。

 魔術の作りだした歪んだ時のはざまで、二人はすでに出会っていた。龍郎にとっては、つい先日だが、青蘭には十数年も前のことだろう。


(かわいそうに。こんなに綺麗なのに……)


 しかし、あのときの傷が、よくこれほど回復したものだ。あれは簡単に完治できるような浅い傷ではなかったのに。


 思わず、ひたいに手をあてると、青蘭が目をあけた。恐怖にすくんだ顔になって、龍郎の手をふりはらう。


「ここはまだボクのものだ! 去れッ、アスモデウス!」


 龍郎の姿が見えていないようだった。

 照明をすべて消しているので、青蘭の位置からは窓の月明かりが逆光になっている。視界がきかないのだろう。悪夢の続きでも見ているのかもしれない。


 龍郎は青蘭のおびえかたが尋常ではなかったので、かわいそうになって、音を立てないように注意を払い、寝袋に戻った。


 暗闇のなかで泣き声が聞こえた。

 青蘭が泣いている。

 昼間はあれほど高飛車なくせに、夜には幼子のように恐怖にふるえて涙を流すのか。

 それほどにツライ体験だったのだ。


(そういえば、両親の遺産と言ってたな。あのときの火事で、家族はみんな死んだんだな。きっと)


 励ます言葉もない。

 龍郎は兄が死んだだけで、こんなに悲しいのに、青蘭はとっくに世界中で一人きりだ。


 対処に困りはてていると、やがて、青蘭は泣きやんだ。また眠ったようだ。すうすうと寝息が聞こえてくる。


 ほっとして、龍郎も寝袋におさまった。いや、おさまろうとした。なんだか聞きなれない音がする。青蘭の呼吸音ではなかった。ズッ、ズッと、濡れ雑巾で畳をこするような音だ。


(なんだ? アレ)


 ズッ……ズズッ……ズルル……。


 畳の上を何かが這っている。

 巨大な蛇のような何かが。


 ゾワゾワと背筋があわだった。

 もちろん、龍郎は蛇なんて飼ってないし、そんな音を立てるような品物も置いていない。だとしたら、あれはなんの音なのだろうか?


 息をするのも忘れて聞き入っていた。が、いつしか音はしなくなった。気分が張りつめていたから幻聴でも聞いたのだろうか?


(きっと気のせいだ。もう寝よう。葬式が終わったあとも警察の事情聴取を受けて、疲れたからな。史織や叔父さんが急にあんな死にかたをして……)


 寝袋のなかに入ると、眠れなかったのがウソのように睡魔に襲われた。眠りのなかへと意識が埋没していく……。


 ズッズッ……ズルル……。


 また、あの音がする。

 きっと、気のせい……。


 チイーッ……。

 今度はジッパーのさげられるような音だ。


 寝袋のなかに誰かの手が入ってきた。チュウッと強く首や襟元に唇が吸いついてくる。


(えっ? ちょっと、青蘭? それはマズイよ。理性には限界ってものがあって——)


 そのとき、ふふふ、と耳元で女の声がした。

 ハッとして、龍郎は目をあけた。

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