第3話 古時計 その五


 *



 気づいたとき、腕のなかの子どもは消えていた。

 何事かささやく子どもの瞳からあふれ、頰をつたい落ちた一粒の涙が、龍郎の胸の奥をずっと濡らしていた。じわじわと湧きだしてくる血の泉のように、やるせない思いが止まらない。


(あれは……青蘭だった。でも、現実のことじゃないだろう。だって、青蘭なら、あの火傷はたぶん生涯、完全には治らない。ケロイドが残るはずだ。皮膚がめくれて、はがれおちていた……)


 そうとう高度な治療と形成外科での手術を受けたとしても、多少の傷痕は残る。傷を受ける前の皮膚には戻らない。


 だが今、青蘭はあのとおりの完璧な美貌だ。とくに純白の絹のような肌の美しさは、尋常とは思えないほどだ。もともとの造作も端麗だが、内から光を放つような、なめらかに白い肌は、彼女の美貌をこの上なく輝かせている。


 ぼんやりしていたようだ。

 ハッと我に返ると、また子どもの泣き声がしていた。

 火事はおさまっていた。というより、最初から幻だったかのように、洋館は消えていた。目の前にあるのは、見なれた離れだ。


 泣き声とともに、パン、パンと何かを打ちつけるような音がする。


 龍郎はイヤな予感をおぼえた。

 離れに近づき、明かりとりの窓の格子のすきまから室内をのぞきみた。


 やはりだ。薄暗がりのなかで、誰かが子どもを叩いている。子どもは畳に背中を丸めてうずくまり、着物を着た女がほうきの柄で、その子どもを叩いているのだった。


 よく見ると、女はさっきの老婆だ。つまり、曽祖母のお鉄である。子どもはこっちに背中をむけているので顔は見えない。青蘭かもしれないと、龍郎は考えた。


「やめろ! 何してるんだ!」


 龍郎は引き戸を勢いよくあけて、離れにとびこんだ。

 お鉄は鬼のような形相で、こっちをふりかえった。

 女の顔がこんなに恐ろしいものになるなんて、たった今まで思ったこともなかった。


(うわッ。悪魔だ)


 体格で言えば、龍郎のほうがはるかに大きいし、体力も数倍ある。なのに、自分の胸くらいまでしかない小さな老婆に“殺される”と感じた。


「……なんだい。龍雄かい」と、老婆はまた言った。


 龍郎が生まれたときには、曽祖母は亡くなっていた。だから、龍郎のことを孫の龍雄だと思っているようだ。

 龍郎はどちらかと言えば母親似だが、体格などは父に似ている。全体のふんいきが近いのだろうと推測した。


「おばあさん。ここで何をしているんですか?」


 父のふりをしてたずねると、曽祖母は困ったような顔をした。


「なんでもないよ。それより、言ったろ? 離れには来ちゃいけないって。おまえは大事な跡取りなんだからね。変な病気がうつっちゃ大変だよ」

「穂波は病気じゃないよ。ちょっと体が弱いだけだ。医者もそう言ってる」

「いいから、あっちへ行っておいで」

「だけど、むこうで、おじいさんがおばあさんを呼んでましたよ」

「おや、そうかい?」


 曽祖母はしょうがなさそうに舌打ちをついて、箒を持ったまま離れから出ていった。


 龍郎はうずくまっている子どもに近より、そっと肩に手をかけた。


「大丈夫だった? 青蘭」


 が、顔をあげた子どもは青蘭ではなかった。少年だ。

 さっき、ころりと口からころがりでたが、それはおそらく、子どものころの穂波叔父なのだろう。どことなく面影がある。可愛い顔にもくっきりと手の形がついていた。平手でぶたれたようだ。


 穂波は大きな目に涙をためて、龍郎に抱きついてくる。

「兄さん! 怖かったよ」

「おばあさんにも困ったもんだ。なんで、おまえをこんなに目の敵にするんだろう?」

「僕には……わからないよ」


 いや、ほんとうは知っていた。

 それは家族が全員、知っていて知らないふりをしている秘密だ。穂波の父は父ではない。祖父の龍彦が外で愛人に生ませた子どもだ。あまりにも年をとってからできた子どもなので、外聞が悪いからと父の息子ということにして、ひきとった。


 ——と、龍郎は父の龍雄の意識で思う。

 どうも、ここでは龍郎の記憶は父と共有されているようだ。この世界じたいが、龍郎の存在を龍雄として認識しているからかもしれない。


「僕、もう死にたい」と、穂波はつぶやいた。


 それはそうだ。物心ついたときからずっと、穂波は鉄に虐待されてきた。鉄にとっては夫が若い愛人に作らせた、憎い敵の子だ。いるだけで腹立たしいのだろう。


「ごめんな。どうしてやることもできなくて。おれが大学を卒業したら、一人暮らしするから、そのときには、おまえもいっしょに暮らそう。それまで辛抱してくれ」


 すると、とつぜん、少年の瞳が妖しく光った。急に妖艶になって、膝立ちになると、赤い唇を龍郎の口に押しつけてくる。おどろいたことに舌を入れてきた。


「僕、龍雄兄さんとなら……いいよ?」

「え? ちょ、ちょっと……おれはよくないんだけど」

「僕といっしょに来てくれるよね?」

「いや、その……そういうつもりじゃ……」


 穂波は少年とは思えない力で、龍郎をグイグイひっぱっていく。龍郎はなぜか敷いたままになっている布団の上に押し倒されてしまった。


「ええと……これって叔父に強制性交されそうになってるのかな? 見ため年齢が逆だけど……」


 あたふたしていると、どこかでガタガタと物音がする。

「うぐッ」とか「むむむ」とか、うなる声にまじって、ぐみん、ぐみんと聞こえてくるのは気のせいだろうか?


(ぐみん……って、言いそうな心あたりは一人なんだけど)


 物音がしたほうを見ると、押入れのふすまが揺れている。なかから誰かが必死に蹴ったり殴ったりしているかのようだ。いや、たぶん、かのよう、ではなく、ほんとにそうしているのではなかろうか。


「青蘭? そこにいるのか?」

「おまえに青蘭呼ばわりされる覚えはない! 気づいてるなら早く助けろ」

「助けてほしいのは、おれのほうなんだが」

「だから、おまえは愚民なんだ!」


 龍郎はため息をついて、ヒルのように吸いついてくる子ども姿の叔父を、ギュッと抱きしめた。龍郎を籠絡ろうらくできたと思ったのか、油断した穂波の力がゆるんだところを、柔道の寝技でゴロンと組み敷く。そのまま、少年をポイッとなげすてて、龍郎は押入れに直行した。


 ガラリと襖をあけると、半裸の青蘭が後ろ手に縛られ、さるぐつわをはめられて、押入れの上段に押しこめられていた。シャツの前がはだけ、ベルトが外され、パンツのジッパーがさげられている。いったい、何があったのか知らないが、これは衝撃的にハレンチだった。


「め……目の毒だ」

「さもあろう。あんなガキに誘惑されてオタオタしてるようではな」


 頰がほてるのを感じる。

 しかし、そのままにもしておけないので、龍郎は青蘭を助けだし、ゆるみかけたさるぐつわと両手を縛るロープをほどいた。


 青蘭が立ちあがると、はだけたシャツから白い肌がのぞく。小ぶりだが抜群に形のいい胸の谷間が目に焼きつくようだ。大理石のようにすべらかで、傷一つない。火傷のあとなど、どこにもなかった。


(きっと、幻だったんだ。ここは、わけのわからない世界だしな)


 着衣の乱れをなおしながら、青蘭が冷たい視線をなげてくる。


「何を見とれているんだ? 君は変質者か?」

「いや、違う……けど」

「さっさと退治して帰るぞ」

「退治?」

「まだ理解してなかったのか? ここは悪魔が作りだした時間のはざまの世界だ」

「時間のはざま……」

「バカみたいに、おうむ返しにしていないで、ボクに協力したまえ」

「バカみたいに……」


 すると、言いあっているようすが仲よく見えたのか、穂波が陰険な目つきになった。


「兄さんのウソつき! 僕を助けてくれるって言ったくせに!」

「ウソつき……」


 青蘭の言うとおり、ついウッカリおうむ返しにしている場合ではなかった。穂波は突進してくると、龍郎の首をつかんで、柱時計のふたをあけた。


 なかから黒い毛の生えた腕がとびだしてくる。するどいかぎ爪を持った獣の手だ。


「うわアアーッ!」


 かぎ爪が迫る。龍郎の左胸に伸びて、心臓をつかみだそうとした。その瞬間、目の前が真っ白ににスパークした。白光が世界を染めあげた。

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