第2話 妖怪二口女 その四



 兄が叫んだ。

「繭子を殺すことなんてできない!」


 青蘭の目が一瞬、白々と冷たくなった。

「ふうん。じゃあ、死にな」

「ちょ——待ってくれ。妻を殺したら、兄さんが逮捕されるじゃないか」と、龍郎はあわてて抗議した。

「逮捕? 警察に捕まるのと、取り憑かれて殺されるのと、どっちがマシなんだ?」

「二択しかないのか?」

「悪魔は取り憑いた相手を必ず殺す。あるいは、自分のものにする」

「自分のものって……?」


 だが、あまりにも長時間、ゴチャゴチャと話していたからだろうか。うーんとうなって、義姉が目をあけた。下着をぬがされた自分の姿を見て、義姉は怒り狂った。


 もちろん、睡眠薬を飲まされて眠らされているあいだに下着をうばわれていれば、女ならば誰でも怒る。または悲鳴をあげる。泣きだす。


 しかし、義姉は白目をむいて、こめかみに青筋を浮かべた。

「見た……わね?」


 それは、できの悪いB級ホラー映画で、正体を人間に目撃された化け物が言うセリフだ。あまりにもベタすぎて、ふつうなら笑っていた。けれど、笑うどころか、悪寒しかしない。



 ——ミテハイケナイモノヲミテシマッタ——



 義姉に殺されると、龍郎は確信した。

 だからと言って、人間の姿をしたものを「じつは悪魔です。殺してください」「ああ、そうですか」と簡単に殺せるわけがない。


 恐怖にすくみながら見つめているうちに、兄嫁の足元に変な影がゆれた。


 義姉の顔しか見ていなかったので、龍郎は最初、視界の下方でうごめくそれに、なかなか気づかなかった。何かチラチラしているなと思ってはいたが、腰をぬかした兄の足がふるえているんだろうと思っていた。


 しかし、あまりにも視界の端がゆれるので、チラッとながめて、ギョッとする。畳の上に蛇が這っている。いや、何か違う。蛇……ではない。


 蛇ではないが、大蛇くらいのサイズはある、とても大きな何かだった。


 見おぼえはなきにしもあらずだ。

 実物を見るのは初めてだが。


 これよりもっと小さなものなら、飲み屋でもスーパーの惣菜コーナーや生鮮売り場でも見かけるが、こんなに大きなものを見たことはない。


 クラーケン——


 それは、大きな吸盤のついた巨大なイカの足だ。

 畳の上で、何本もゆらゆらと揺れている。


 龍郎は異様なものの出現を見て、それがどこから現れたのか、もとをたどっていった。吸盤のある触手の根元を目で追うと、それらは義姉のスカートのなかに消えていた。


 義姉のスカートから、十本以上もの触手が生えている。

 当然、スカートから生えているわけではないだろう。

 だとしたら、そのつながるさきは……。


「うわあああーッ!」


 龍郎は叫んで、あとずさった。

 兄は叫ぶこともできず、その場でヘタりこんでいる。

 兄の足首に、義姉の触手がまきついた。


「兄さん!」


 龍郎が手を伸ばしたときには、兄の体は触手につかまれたまま、義姉のもとへひきよせられていた。義姉のスカートのなかに、ずるずるとひきずりこまれていく。たくさんの吸盤に吸いつかれながら、兄の体は足首、ひざ、大腿部、腰——と、みるみる見えなくなる。


 ありえない光景だった。

 兄の——成人男子の体が、姉のスカートに吸いこまれていくのだ。物理的に、そこにおさまることは不可能だ。


「兄さん! 保兄さん!」


 龍郎はかけよろうとするが、青蘭に腕をつかまれて、ひきとめられた。青蘭は残酷に宣言する。


「もう遅い。おまえの兄は喰われた」


 その言葉を証明するかのように、義姉のスカートのなかから、バリバリと音が聞こえた。あのスーツケースが立てていたのと同じ音だ。義姉の顔は恍惚としていた。官能的な甘い声でうめきながら、兄を二つめの口で喰っている。


 義姉のスカートの下から生えたたくさんの触手のあいだに、苦悶の表情をうかべた兄の首がぶらさがっていた。

 やがて、それもズブリと吸盤のなかに埋まって消える。


 義姉が感極まった叫び声をあげると、触手のあいだからボトボトと大量の血がこぼれおちてきた。畳が鮮血に染まる。


「ステキ……人間の男って、なんて美味なの」


 義姉はそう言って、龍郎に目をむけてきた。

 すっと、一歩、近づいてくる。義姉の足の動きにつれて、触手もザワザワと蠢く。


「ほんとは、保さんの子どもをたくさん、たくさん生むつもりだったのよ? たくさん、たくさん、たくさん生んで、仲間を増やしたかった。なのに、あなたたちが、こんなことするから……」


 スルスルと触手が伸びてくる。

 こいつは、おれのことも喰うつもりなんだと、龍郎は直感した。あきらめにも似た気持ちで、チョロチョロと近づいてくる触手をながめる。


 そのときだ。

 龍郎の前に青蘭が立ちはだかった。


「下郎。ボクのなかのヤツと戦いたいか?」


 義姉は数瞬のあいだ、青蘭の顔を凝視していた。

 初めはバカにするような目つきだったが、じょじょにその表情がうつろう。戸惑うように眉をしかめたかと思うと、眉間のしわが深まり、やがて驚愕と畏怖の色に支配された。


「あ……あなたは……」

「おまえていどの小物でもわかるみたいだな。いいのか? 今すぐ、ヤツを呼ぶぞ?」


 義姉はギリギリと音が聞こえるほど強く歯がみした。

 そして、とつじょ走りだすと、窓をやぶって裏庭の竹やぶのなかへと消えた。


 龍郎はぼうぜんと、それを見送った。




 了

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