第1話 スーツケースの男 その三
龍郎は歯の根があわない。カチカチと歯と歯がふれあって、変な音を出す。すると、ゲームをしていた中学生が、龍郎のようすを見て、クスクス笑いだした。
「なに、あの人。ヤバくね?」
「クスリやってんのかもよ」
「わあ、怖いじゃん」
何を言ってんだ、おまえら!
あれが見えないのか?
怖いのはおれじゃなくて、アイツだろ?
そう叫びたい衝動にかられた。
しかし、舌の根がふくらんでこわばり、声も出ない。
シュッとスーツケースから、赤い舌が伸びた。
今度は中学生をひきずりこむ。
ゴロンと床にスマホが落ちた。
相棒が消えた中学生は首をかしげながら、友達のスマホをひろった。
「竹内? どこ行った? おーい、竹内?」
キョロキョロしながら龍郎の前をよこぎり、あろうことか、スーツケースの男のほうへ近づいていく。
少年は友人が別の車両に走っていったとでも思ったのか、連結部へ向かっている。
スーツケースの前を通りすぎる瞬間、ペロンと舌が伸びた。虫を捕まえるカメレオンの舌のように、中学生をとらえ、一瞬でスキマの内へ消える。
(もうダメだ。ガマンできない。叫ぶぞ。もう叫ぶぞ)
うっ、うっ、うっ——とうめいていると、目の前に誰かが立った。
あの美女だ。すっと、白い手で龍郎の口をふさぐ。
「まさか、見えているのか?」
見えてるかだって? 逆にアレが見えないなんて、どうかしてないか?——と、龍郎は言いたいのだが、美女の手にふさがれて話すことができない。
「いいだろう。おまえは救ってやる。来い」
口をふさぐ手を離すと、今度は二の腕をつかんで、美女は龍郎を座席から立たせた。
しかし、こんなときにアレだが、美女の声は魅惑的なアルトだ。女性にしては、あまりにも低い。最初、どこからその声が聞こえているのかわからなくて戸惑った。
「救う? いったい、アレは……」
「しッ」
美女は人差し指を薔薇の花弁のような赤い唇に押しあてて、ひきずるようにして龍郎を歩かせる。
スーツケースの男から離れたドア前までつれられていった。
スーツケースの男は顔をうつむけたままだが、上目遣いにこっちをながめていた。その目つきが、背筋がゾクッとするほど陰湿で、どこか無念そうだ。
まもなく、電車は次の駅に近づき、運行スピードを落としていった。
背後で「ギャッ」と声があがり、見ると、買い物袋をさげた女がスーツケースのスキマに飲みこまれていくところだった。
急ぎすぎたのか、スーツケースの閉じるのが少しだけ早く、おばさんの大根のような足が、ブツンとちぎれて床にころがる。血がいちめんをぬらした。
車内アナウンスが次の駅名を告げる。
駅だ。駅につけば、ここから逃げだせる。
ほかの人たちは誰も立ちあがる気配もないが、自分は助かるのだ。アイツに食べられなくてすむ。生きて、これまでどおり暮らしていける。
そう考えると、その場にヘタリこみそうなほど力がぬけていく。
だが、そのとき、龍郎は見てしまった。
幼稚園の制服を着た女の子が、トコトコと歩きだすのを。
スーツケースの男のほうへ近づいていく。
(やめろ。そっちに行くな)
大人や高校生が犠牲になるのは、かろうじて見ないふりができた。だが、幼な子が喰われるところを見すごすことは、龍郎にはできなかった。あまりにも胸が痛む。
思わず、女の子の胴体をつかんで抱きあげていた。
子どもがビックリして泣きだす。母親が悲鳴をあげた。
「あなた、何するんですか! うちの子をどうするつもりッ?」
龍郎は目の端でスーツケースの男がこっちにむかってくるのを視認していた。怒っている。男がスーツケースの口をひらくと、赤い舌がこっちに伸びてくる。
「バカ! 子どもなんか、ほうりだせ!」と、美女が声を荒げた。
「そんなことできない」
「自分が喰われたいのか?」
「でも——」
目の前に舌が迫る。巨大な猛獣が真っ赤な口をあけて、龍郎を飲みこもうとしているようだ。
ダメだ。喰われる。ここで死ぬんだ。なんで、おれは、こんなわけのわからない死にかたを……。
あきらめの境地でソレを見つめていたとき、電車がホームに停車した。ドアがひらく。
美女が思いきり、龍郎をつきとばした。美女と龍郎と女の子と、女の子をとりもどそうとする母親は、もみくちゃになってホームに倒れる。
ドアの前にならんでいた人たちが迷惑そうに龍郎たちを見た。
両側によけながら、車内へ入っていく。
その人の波に押されるように、スーツケースの男は、もとの座席へ帰っていった。
やがて、ドアが閉まり、電車は走りだす。
ゆっくりと動きだす電車の窓ごしに、男は龍郎たちをながめていた。のがした獲物をさも惜しむような顔で。
「た……助かった、のか?」
「あれはより多くの獲物を求める。追ってはこない」
龍郎は泣きわめく子どもを母親の手にもどした。
母親は何やら、しきりと文句を言っていたが、龍郎の耳には入っていなかった。
「あれは、なんだったんだ?」
起きあがりながらたずねると、同じく立ちあがり、服のほこりを両手ではらっていた美女が、つまらなさそうに言った。
「あれは“貪食”だ。ただの小物だよ。ボクが退治するまでもない」
「どん……えーと……退治って?」
しかし、それきり答えず、美女は歩きだす。
「あの、待って。君はいったい誰なんだ? 何が起こったんだ?」
美女は片手をあげて、立ち去った。
了
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