第1話 スーツケースの男 その二
じゅんぐり見まわす美女の視線と、龍郎の視線が交差した。
あわてて、龍郎は目をそらした。わざとらしくはなかっただろうか? 美女に不愉快に思われたのではないかと考えると、ちょっとヘコむ。
うつむいて顔をそむけたさきには、スーツケースの男がいた。
(あれ? 何してんだ? こいつ)
思わず、龍郎は男の顔を見直した。
それでなくても大の男がまるまる一人は入りそうな巨大なスーツケースだ。通路をふさいでジャマになるというのに、男は留め金に手をかけて、ひらこうとしている。まさか、この車内でひろげようというのか?
(なんだろう? マップでも見るのかな? それともスマホでもとりだすつもりか? 迷惑なヤツだな)
他人の迷惑をかえりみない行為を平気でするマナーの欠如した人間は、どうも嫌いだ。
ちょっと雑誌でも出してみるだけなら、さほど時間もかからないだろうが、もしも、むかいの席の老人や妊婦を困らせるようなら注意しようと、龍郎は考えた。
ドアをはさんで、となりの席——つまり、龍郎と同じシートの左側には女子高生たちが並んですわっている。
にぎやかな笑い声が車内にひびいていた。
「知ってる? 三年の立林先輩、里緒菜のこと好きらしいよ」
「ええっ! ウソ! ありえないよ。立林先輩が?」
「趣味悪くない? 里緒菜はないよね」
「あたし絶対、土屋先輩とつきあってると思ってたぁー!」
「土屋先輩なら、あきらめつくけどねぇ」
「お似合いだもんね」
「ええ、でも、じゃあ、土屋先輩、傷つくよねぇ?」
「まあ、あたしらには関係ないけどさ」
「さおりん、よく言うよぉ。立林先輩の前では、超猫かぶりのくせにぃ」
龍郎はしばし、少女たちのおしゃべりに気をとられた。
たわいもない会話がほほえましい。
そのとき、とつぜん、制服を着た少女の背後に黒いものが伸びてきた。一瞬、人影が立ったのかと思った。しかし、次の瞬間には、その影は消えていた。
龍郎は思わず、何度もまばたきした。
錯覚だったのだろうか?
目をこらすが、影のようなものは見えない。
しかし、違和感をおぼえた。
さっきまでの映像と、今、見ている映像では、何かが違う。
龍郎は間違い探しのゲームのように、記憶のなかのヴィジョンと、目に映る景色をくらべる。
(ああ……)
ようやく気づいた。
(女の子が一人たりない)
いったい、どういうことだ?
さっきまで、たしかに女子高生は五人いた。それが今では四人しかいない。
「あれ?
「え? 知らない」
「どこ行ったの?」
「ほんとだ。どこ行ったんだろ?」
女の子たちも、とつぜん消えた友人に戸惑いを隠せない。
電車のなかに人間が一人、隠れていられるような空間はない。小さな子どもでさえもだ。
特急のような縦列シートなら、あるいは座席のあいだに身をふせたとも考えられるが、オープンな各駅停車の車両では、そういうわけにはいかない。
何かが、おかしい。
少女が一人、瞬間的に消失した。
なんとも言えない気味悪さが背筋を這いあがる。
龍郎はわけがわからず、警戒心だけをつのらせながら、あたりを見まわしていた。
すると、シュッと黒い紐状のものが伸びた。
女の子がまた一人、消える。
「やだ。
「ええー! なにコレ?」
「ドッキリだよ。二人とも、どっかに隠れて見てるんだよ」
ドッキリ? 隠れる?
そんなことが不可能なことは、となりで見ていた龍郎にはよくわかる。
寒気が強くなる。
そのとき、龍郎は気づいた。
あの男が笑っている。
大きなスーツケースをかかえた男だ。伏し目がちに床を見ながら、薄笑いを浮かべていた。
(なんだ? あの男?)
まさか、あいつが女の子たちに何かしたのだろうか?
龍郎は男のようすをじっと観察した。
しかし、さっきも見たとおり、どこと言って異常なところはない。少しくたびれた感じの普通の中年サラリーマンだ。着ているものも、どこにでもある背広だし、スーツケースがちょっと大きいが……。
視線をおろしていった龍郎は、ギョッとした。
わずかにスーツケースがひらいて、そのスキマから何かがのぞいていた。赤い目のように見えた。が、一瞬で、それは消えた。
目の錯覚か。
妙なことばかり続いて、神経質になっているのかもしれない。
いったい、どうやったのか知らないが、女の子たちは、きっとマジシャンの卵なのだ。手品クラブか何かで練習した消失マジックで、友達をからかっているに違いない。
龍郎は「ふう」っと吐息をついて、深々と座席の背もたれに背中をあずけた。
両目をとじて、目頭のあたりをかるく、もんだ。
そのときだ。
とつぜん、耳元で「キャアアアッ」と悲鳴があがった。
あわてて目をあけると、女の子が黒い毛むくじゃらの腕につかまれて、中年男のスーツケースのなかに引きこまれるところだった。
女の子を飲みこんだスーツケースは、バタンと派手な音を立てて閉まり、まるで
(な——スーツケースが……)
スーツケースが、女の子を喰った!
体が硬直して動けない。
目を離すこともできない。
つかのま、スーツケースは心臓の鼓動のような動きで縮んだり拡がったりしながら、イヤな音を立てていた。やがて、じわっと、その底から血がにじみだす。
龍郎は周囲の人間をながめた。
なぜ、誰もさわがない?
龍郎と同じように、おどろきすぎて声も出ないのだろうか?
しかし、みんな落ちついていた。
電車の振動にあわせて揺れながら、コクリ、コクリと舟をこぐ老人。
胎児と対話しているかのように半眼でお腹をさする妊婦。
ゲームに夢中の中学生。
誰も気づいているようすがない。
女子高生たちでさえ、いなくなった友人のことをすでに話題にしなくなっていた。
「明日、一時間めから体育だっけ? たりぃ」
「数学、宿題あったよね? 写させてくれる?」
「いいよ。ローソンのロールケーキおごって」
なんて言っている。
すると、あのサラリーマンが立ちあがった。
スーツケースを大きく開く。
なかに獣でも入っているのかと思ったが、カラだ。
ひきずりこまれたはずの女子高生も見えない。
カラッポの大きなスーツケース。
なぜ、男はそんなものを後生大事に持ち歩いているのだろうか?
——と、スーツケースの内側の赤い布が急にふくらんだ。
長く伸びて、男の向かいにすわる老人をつかんだ。
ベロンと、舌のような動きでスーツケースのなかへひきこむ。
バタンと閉じて、また、あの咀嚼の音がした。
もう、まちがいない。
スーツケースが人間を食べている。
龍郎の体がふるえだした。
ガリガリ。バリバリ、バリン!
またたくまに、残りの女子高生二人と妊婦が喰われる。
それでも、誰も叫び声をあげない。
男やスーツケースを見ようともしない。
みんな、いったい、どうしてしまったのか。
誰もこの恐ろしい凶行に気づいていないのか。
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