第二話 妖怪二口女
第2話 妖怪二口女 その一
なんだか、とても疲れきったが、約束の時間までには兄の指定した居酒屋についた。見なれた暖簾をくぐって、なかへ入ると、兄が来て待っていた。
「やあ、待った?」
いつもはカウンターに席をとる兄だが、今日はナイショの話があるせいか、すみのテーブル席にすわっている。
龍郎は向かいにすわりながら、声をかけた。
「いや、おれも今、来たとこだ」
たしかに、兄の前にはビールとつきだししかない。まだ注文していないようだ。
龍郎はメニューを見て、勝手に豚の生姜焼き定食をたのむ。
兄は酒のさかなをいくつか注文した。が、それにしても顔色が悪い。食欲もないようだ。
「ぐあい悪いの?」
「いや……」
「ならいいけど、仕事、ムリしてるんじゃないのか?」
「そうじゃないんだ」
「じゃあ、心配ごと?」
たずねると、兄は長々とため息を吐きだした。ため息といっしょに胃の腑が出てきそうだ。やはり、悩みがあるようだ。だからこそ、とつぜん電話をかけて、龍郎を呼びだしたのだろう。
「話があるんなら聞くけど」
兄は周囲の耳目を気にするように声をひそめた。
「こんなこと、おまえにしか話せなくて」
「ああ。二人きりの兄弟だからね。なんでも言ってよ」
兄は昔からマジメで、そのぶん悩みも多かった。責任感が強すぎるのだ。気にしなくていいことまで気になるらしい。
その点は龍郎のほうが楽天家なので、兄の相談を受けることは初めてではなかった。そんなこと大した問題じゃないよ、兄さんならできるよと言ってやれば、「まったく、おまえは呑気だな」と、兄は笑いとばすのだった。
だから、今回もこれまでと同じだと思っていた。
仕事のことや先行きのことで、ちょっと不安になったのだろうと。
まさか、兄があんなことを言いだすとは思わなかった。
「じつはな。
「うん?」
繭子は兄嫁の名前だ。
さては、新婚早々、ケンカでもしたのだろうか?
「義姉さんが、どうかした?」
「……あいつ、あるんだよ」
「あるって、何が?」
「歯だよ」
つかのま、兄の言っている意味がわからない。
「そりゃ、あるだろうね。入れ歯の年じゃない」
兄はもどかしそうに首をふった。
「上じゃない。下だよ」
「はっ? 何言ってんだか、わからないんだけど」
「だからな。あいつ、下の口に歯があるんだよ」
さすがに鈍感な龍郎にも、兄の言わんとする意味がわかった。
「つまり、その、女性の……にってことか?」
兄はだまって、うなずく。
龍郎は反応に困った。これは兄の冗談だろうか?
それとも、のろけの一種だろうか……。
「えーと……」
返答に窮していると、兄の目つきが急に険しくなる。
「本気にしてないだろ? どうせ、おれの頭がどうかしたと思ってるんだろ? でも、ほんとなんだ。あいつ、かむんだよ。ふだんは何もない。でも、興奮してくると、歯が生えてきて、かむんだ。甘噛みだけどな」
やっぱり、のろけだろうかと、龍郎は思う。
兄はイラだったように、こぶしでテーブルをたたいた。周囲の視線が集まる。あわてて、龍郎は頭をさげる。
「兄さん」
「……悪い。けど、ほんとなんだ。あいつ、人間じゃない。おれ、殺されるかもしれない」
これは、マズイ。
兄は心を病んでいる。
おそらく、結婚生活が予想以上にストレスだったのだ。
どうしたらいいのだろうと、龍郎は困惑した。
とにかく、原因を聞きだして、ストレスを緩和させるべきだ。場合によっては義姉にも相談したほうがいいかもしれない。それで症状がよくならなければ、専門医に診せるよう父と話しあうしかない。
まずは兄の家庭の現状を把握しておかなければならない。
龍郎は自然をよそおって言いだした。
「今晩、泊めてもらおうかな。義姉さんがほんとにそうなら、ぼろを出すかもしれない。観察してみよう」
「ああ。頼む」
「着替え持ってこないと」
「おれのを貸すよ」
「さすがにパンツはちょっと」
「使ってない新品のやつがある」
まあ、たしかに、今日はもう電車に乗りたい気分ではない。
たぶん、あれはテレビのドッキリのロケか何かだったのだろうが、心の底から恐怖した。あんな思いは二度としたくない。
「わかった。じゃあ、よろしく」
そのあとは一言も発することなく食事を終えた。
居酒屋を出たときには、あたりには濃い闇がおりていた。
駅裏のせいか、街灯の数が少ない。
なんだか暗闇がやけに恐ろしく思えた。
裏道を通って歩いていった。
「いつから義姉さんのこと、そんなふうに思うようになったんだ?」
「結婚して二週間くらい経ってからだ」
「じゃあ、もっと早く相談してくれればよかったのに」
そうしたら、こんなにひどくなるまで、ほっとかなかったのにと悔やまれてならない。
兄の住居は裏道ぞいにある一軒家だ。兄の収入なら駅前の分譲マンションだって買えただろうに、庭つきの一戸建てに住みたいと義姉が言ったらしい。古くさい昭和の香りのする二階建てだ。
見おぼえのあるお稲荷さんの赤い鳥居の前をすぎ、兄の家の近くまで行くと、誰かが立っていた。門灯の明かりにシルエットになって、よこ顔がかすかに見える。
(あれは?)
暗くて、よく見えないが、なんだか見たことがあるような……。
近づくごとに、その麗しいおもてが見わけられるようになり、龍郎の胸は高鳴る。
門前まで来ると、その人はふりかえった。まちがいない。あの人だ。電車のなかで出会った絶世の美女。あらためて見ても、魂を吸いとられそうに美しい。
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