延命艇

王子

延命艇

 ハロー、ハロー。聞こえますか。こちら、猫手ねこて探偵事務所所長の猫手です。

 無線を使ったことが無いので、通信がどこに届いているのか、そもそもこの無線機は生きているのか、これが無線機ではなく別の用途の機器なのか、私には分かりません。声を聞き届けてくれる存在がそちらにいるのかさえも。

 聞こえていればどなたでもいいのですが、セルゲイ博士に取り次いでいただきたいのです。私のクライアントです。詳しいプロフィールは分かりません。博士はご自身についてあまり話そうとされない方でした。クライアントが話したがらないなら知ろうとしないのが探偵の流儀というものです。いかにも博士風の白衣を羽織った初老の男性で、名前からはイメージしづらいですが純日本人のお顔立ちでした。もちろん、顔や服装といった外見だけでどんな人物か決めつけているのではありません。しかしクライアントがセルゲイと名乗ったならば、研究者であり博士号を持っていると言ったならば、それを信じるほかないのです。

 もしそちらに博士がいらっしゃらないのでしたら、あなたが代わりに聞いて、覚えておいてくだされば幸いです。今から話すことにはクライアントの依頼内容が含まれます。本来であれば守秘義務に抵触するのですが、他に手段がありません。他言無用で、墓場まで持って行っていただけると助かります。


 セルゲイ博士、これは先日お話ししたとおりですが、ご依頼のあったキャシーの捜索は完了し、獣医によれば怪我も病気も無いがだいぶ痩せているとのことで点滴をしてもらいました。あのときキャシーを博士に引き渡せば仕事は完遂したのですが。

 私はペット探し専門の探偵ではありませんが、動物の足取りを追うときに特別な勘が働くので、愛犬、愛猫、愛鳥をはじめ、爬虫類、昆虫、家畜なんかの捜索依頼がひっきりなしに持ち込まれましたし、逃げ出した猛獣の行方探しを動物園から秘密裏に頼まれることもありました。水生生物の捜索はお断りしていました。私は泳げないのです。

 博士からの「逃げ出した愛犬を探してほしい」とのご依頼も数ある案件のうちの一つでした。捜索の助けとなる材料はたくさんありました。キャシーの写真は、顔のアップから全身を写したものまで揃っていました。美人で賢そうな雌のボーダーコリーでした。首輪にはネームタグを下げ、背中には白毛でハートの模様があり、人から与えられた餌しか口にしない。私でなくても探偵の心得がある者なら誰でも探し出せたでしょう。

 ご依頼から三日後、博士のご自宅から遠く離れた山中、洞穴の中でうずくまり眠っているキャシーを見付けました。距離にして四十キロほど。失踪犬の移動距離は多くても一日で五キロほどですから、かなりの距離を移動したことになります。

 車の後部座席のケージで、キャシーはお行儀よく前脚を揃え、頭を上げ、姿勢を正していました。疲れ切っているはずなのに、人様に送迎していただくのだから当然の礼儀といった様子でした。あるいは、お縄についた逃亡犯が観念して自身の行く末を静かに受け入れているようでもありました。思い返してみると、諦めの色を帯びていたようにも思われます。

 キャシーの姿を見るなり博士は吠えるように泣き出しました。キャシーは泣きじゃくる子供をあやすように、博士の頬を伝う涙を舌でぬぐっていました。

 お茶でも飲んでいってくれと、長い長い廊下を歩いて通された部屋は、妙に無機質な印象でした。装飾は無く、ソファーもテーブルもティーセットをしまう食器棚も無く、客間と呼ぶにはあまりにも簡素な部屋でした。まるで球体に入り込んだような部屋で、床以外はなめらかな曲線を描いていました。

 振り返ると、重そうな扉が閉まり、廊下を走っていく博士の足音が聞こえました。傍らにはキャシーが伏せていました。ケージに入っていたときと同じ姿勢でした。私はというと、大きく長方形に切り開かれた窓の外を眺めて、数分は立ち尽くしたままでいました。座る場所が無いのでそうするしかなかったのです。博士が紅茶と茶菓子を携えて戻ってくることはありませんでした。

 突然の揺れと轟音ごうおんが私とキャシーを襲いました。地震だ、と思って辺りを見回しましたが身を隠す場所もありません。ふらつきながら固く閉ざされた扉に辿り着きました。扉というより、この球体の蓋に見えました。私の半身ほどの大きさがある金属製のドアハンドルは、大型船の舵みたいな形をしています。しがみついても、びくともしませんでした。体がひどく重くなり身動きが取れなくなりました。キャシーものっそりのそりと近付いてきました。

 ふと窓の外を見やると、景色が動いていました。窓だと思って見ていたものは、実は映像を映すスクリーンだったのかと思いましたが、すぐに考えを改めました。そして、自分の身に起きている事態に気が付きました。この球体は空を飛んでいる。鳥のように悠々と滑空しているということではなく、垂直に、空を突き破る勢いで急上昇しているのだと。

 それからしばらくは目を閉じて、体にかかる重力に耐えなければなりませんでした。こうして博士に語りかけていられるのは、この球体の船のおかげなのかもしれません。宇宙飛行士は強烈な重力に耐えられるよう特別な訓練を積むのです。私のような小柄で痩せっぽっちな体が潰れなかった事実を幸運の一言では片付けられないでしょう。

 私も、見たところキャシーも、なんとか無事でした。

 窓の外は闇でした。透明な一枚の隔たりの向こうに宇宙が広がっていました。

 床下に食糧庫を見付けました。ドッグフード、缶詰、犬用のおやつ、大量のレトルト食品と食器。驚いたことに、お手洗いとシャワー室まであり、私の背丈ほどある銀色のタンクが鎮座していました。卓上クッキングヒーターの上に、封筒が置かれていました。


 打ち上げが成功していれば、君はこの手紙を読んでいることだろう。

 平たくそして乱暴に言ってしまえば、私は地球を浄化する手段を研究していた。

 この星は汚れきっている。

 道徳心はすたれ、利己主義者が闊歩かっぽし、争いは絶えず、人類の心は腐っている。

 やがて人類の身勝手さは、この星を破滅へと向かわせた。

 自然環境の破壊を食い止める手段が模索されたが、誰も問題の本質に目を向けない。

 研究の結論として、行動に移すことにした。

 実行するにあたり、キャシーと君には飛んでもらわねばならなかった。

 依頼だ。ひとまず一ヶ月、キャシーに餌をやってくれないか。

 その後については追って伝える。


 良かった、無計画で宇宙に飛ばされたのではなかった、と安堵しました。一筋の光。生き延びられる希望に居ても立っても居られなくなり、キャシーを抱きしめました。

 キャシーは体内時計で覚えているらしい定刻になると、私の膝に前足で触れて合図します。一日に二食、ドッグフード、缶詰、おやつのパウチ、どれも記載された規定量を守り、水はこまめに換える。お腹を満たすとキャシーはすり寄ってきて撫でてくれと催促するので、頭を、顎下を、両頬を、肩甲骨の間を、背中のハートを存分に撫でてやります。

 クッキングヒーターのおかげでカレー、鮭のムニエル、コンソメスープ、肉じゃが、カレイの煮つけ、フライドポテトなどは温かく喉を滑りました。レトルト食品といえどもあなどれません。タンクの浄水機能は排水を一滴残らず飲料水に生まれ変わらせました。

 適度な運動も欠かせません。狭いなりに飛んだり跳ねたり、すぐに追いついてしまうおいかけっこをしたり、たまにはお腹の底から思い切り遠吠えをしてみたりしました。

 船の中は重力、温度、湿度、酸素濃度が完全にコントロールされているようでした。真空圧縮された布団と枕はやや大きめで、元の姿を取り戻すと私とキャシーを安眠へといざなう寝床になりました。いつもお互いの背中の温度を共有して眠りました。寒くはありませんでしたが、そうして時間をやり過ごすのが自分達の置かれた状況に相応ふさわしいように思えたのです。

 キャシーとの日々は穏やかでした。これといって不自由も不都合もありませんでした。

 そろそろ博士から無線でも入るだろうと迎えた二十九日目の朝、つまり今朝です。

 ドッグフードの袋の底に封筒が埋まっていました。


 この手紙を君が読んでいる頃、地球は火の海か、灰すら残らない荒涼な大地へと姿を変えているだろう。

 地球は浄化されたはずだ。いつか遠い未来に、新しい命が宿るだろう。

 お役目ご苦労だった。君ならばキャシーを生きながらえさせてくれると信じていた。

 一日でも長く生かしてやりたかった。その子にしてやれることは全てやった。

 依頼は以上だ。後は好きにしてくれていい。その船もキャシーも君の物だ。


 それだけでした。

 ようやく私は気付いたのです。この船は私達を救ってはくれない。しばし辛抱すれば、いずれ地球に進路をとって帰還できる救命艇きゅうめいてい、ではない。限られた時間を過ごすための延命艇えんめいていに過ぎないのだと。キャシーとの宇宙飛行は言ってみれば延命旅行だったのです。

 それが分かると、連鎖するように博士の思惑が見えてきました。

 キャシーの捜索は簡単な仕事でした。探偵であれば誰でも完遂できる仕事でしたが、私の実績を見込んで、念には念を入れて私に依頼されたのでしょう。罪の無いキャシーを巻き込むわけにはいかない。なんとしても船に乗せねばならない、と。

 ならば、キャシーだけを船に乗せればよかったのではないかと思ったのですが、博士は事前に情報を提供してくださっていましたね。捜索には必要の無い情報でしたが。

 キャシーは人の手から与えられた餌しか口にしない。

 給餌する人間がいなければならなかった。動物嫌いの、あるいは動物にアレルギーを持つ探偵では務まらない。だから私は適任だったのでしょう。ペット探しに定評のある探偵が、動物を毛嫌いしたり、皮膚のかゆみに悩まされたりするはずはありませんから。キャシー探しの依頼を受けた時点でチェックメイトだったのです。

 キャシーは博士の計画で引き起こされる事態を予期して、突然逃げ出した。本能に違いありません。動物の危機察知能力は非常に優れているのです。博士の元から離れて、なるべく遠く、遠く。キャシーは賢い子です。もしかしたら、どこにも逃げ場など無いと分かっていたかもしれません。捕捉されたキャシーは、噛み付いたり吠え立てたり暴れたりしませんでしたし、船に乗せられてからも私を責めることなく寄り添っていてくれました。あの日ケージに入れられたときから、キャシーは全てを受け入れているのでしょう。

 博士の手紙から推察するに、地球全土を焼き尽くす兵器を使ったのでしょう。人類が傲慢ごうまんさを悔いる間もなく、ボタン一つで浄化の炎に呑まれるような最終兵器を。

 宇宙に追放された私とキャシーはさながらアダムとイヴでしょうか。「船もキャシーも君の物」とのことですが、彼女がいくら美人で優しくさとい子でも、さすがに尾を交えるわけにはいきません。種の保存は望めませんからノアの方舟はこぶねにもなりません。

 あるいは、片道切符が定められていた点で言うならばライカのようでもありますね。この船はライカの棺よりも快適過ぎた気はしますが。

 迷宮であれば、ひたすら歩いて、歩いて、歩いた先に出口が見つかるかもしれない。でもこの延命艇は乗船した瞬間から行き止まりなのです。ベルカとストレルカのように再び地上で光を見ることはかなわないのです。このままでは。

 ところで、地球はとても大きな星ですね。実はこの船からもちらりと見えるのです。船の操縦はできないので、四角い窓から見える範囲はそう広くありませんが。地球の青さがのぞめるのです。そう、あまりにも綺麗な青です。まるで何事も無かったような。

 博士、本当に地球はリセットされたのでしょうか。愚かな星は生命の電源を絶たれ、新たな芽吹きによる再起動の時を待っているのですよね。ならば、どうしてあんなにも美しいままなのでしょうか。

 博士は「この星は汚れきっている」とおっしゃいましたね。だから、我が身も含めて全てを焼き払えば綺麗になると結論付けた。

 博士の計画が何らかの原因で実行できなかった、あるいは不完全に終わった、などと露ほども思ってはいませんが……もし万が一、博士の満足のいく結果が得られなかったのだとしたら。「やはり地球は汚れきっている」と憤慨しながら研究室にこもっているのであれば。あの地球の青が、その証明なのだとしたら。

 一つご提案ですが、お考えを改めてみるのはいかがでしょうか。

 私は、地球は十分に綺麗な星だと思っています。もちろん、全てが球のように完璧な形をしているわけではありません。ひび割れもゆがみも凹凸でこぼこもあるでしょう。その全てを平らにならせば確かに綺麗にはなるでしょう。私も綺麗で滑らかな曲面にはれすることでしょう。でも、綺麗ならいいのでしょうか。キャシーを放り出してまで手に入れなければならないものなのでしょうか。

 博士は優秀な学者であり技術者であるはずです。どうか、この無線が届いていれば。どんなに汚れた星でも構いません。帰還を果たした二匹の宇宙犬みたいに英雄を出迎えるギャラリーも要りません。この船を、救命艇にしてはいただけないでしょうか。

 ハロー、ハロー。聞こえますか。

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