第5話 出会い

「なにかあったんですか?」


とマスターが静かに聞いてきた。


「私でよければ聞きますよ」


僕は言葉が出るままに、ばぁちゃんの死をマスターに語った。


「そうですか、実は私も昨年母を亡くして…」


とマスターは静かに語った。


「…そうですよね、これは誰でも通る道ですよね」


と私は言い、


「そんな時に酒に酔っている自分が心底情けなくなったんです」


と白状した。


「なんの、通夜でも葬式でもみんな酒を飲むでしょう。何も悪いことじゃありませんよ」


と明るく言うマスターの顔はやさしかった。


とその時、何気なく横を見ると君がいた。


―いつからいたんだろう。


君の横顔に、ラム酒に浸る氷のように透き通った目が光っていた。


雷に打たれたように、とは良く言ったものだ。


僕の全身は痺れ、君の吸い込まれるような瞳から視線をそらすことが出来なかった。それはカウンターにきれいに並べられた酒瓶を映し出して、小さな世界を生み出していた。思い切って飛び込めば、その透明さが僕のすべてを包み込み、僕の中のどす黒い汚濁を洗い流し、僕の心に静寂と安寧を与えてくれそうな世界を......。


そして、僕の頭の中に、乾いたオレンジの香りの風がそよぐ様に、ゆっくりと音楽が流れ始めた。


僕はその音楽が終わってしまいそうな気がして、いっそう視線を外せなくなった。


君は“ばかばかしい”とでもいうように、


「なに?」


と横顔のままぶっきらぼうに言った。


僕が口ごもっていると、マスターが


「駄目ですよお兄さん、うちの大切なお客さんなんですから」


と茶化すように言い、3人とも吹き出してしまった。


そしてその時君とはじめて目が合った。


君ははじめ僕の目の真ん中を、細い針で刺すように僕を見たのだったが、次の瞬間には瞳の中央から冷たい血の吹き出す僕の目をいたわるように微笑んだ。


―君が刺しておいてそれはないよ。


僕はそうなじるように君を見たが、君はその全てを包み込んでしまって、僕は太平洋の真ん中で、暖かい海水の中をもがいているような気持になった。


僕の手は痺れて感覚を失っていたが、それが心地よかった。


マスターがチェイサーをぶっきらぼうに僕の前に置いたので、ようやく僕は君から視線を外すことができた。


「じゃぁ最後にジントニックをもう一杯」


と僕が言うと、


「ジントニックをもう一杯」


と君は僕の真似をした。


マスターに目配せをして君の分も支払って店を出ると、雨が降っていた。


躊躇しながらも雨の中を歩きだすと、君が追いかけてきた。


「すみません、マスターから聞いてびっくりして...。ありがとうございました」


「いえ、ではまたどこかで」


僕はそう言うと振り返って歩き出そうとしたのだが、


「あの、これ使ってください」


と君は傘を差し出してきた。


「いや、いいよ、君が濡れてしまう」


と僕は言ったが、君がしつこく押しつけてくるのでもらうことにした。


「ありがとう」


そういって傘を受け取ろうとしたが、君はそれを離さなかったので、僕が君を引き寄せたような格好になった。


沈黙に僕の心臓の音が響かないか心配したが、幸い雨の音がさらっていった。


僕は彼女を抱き寄せないといけなかったのだろうが、僕の腕は雨粒に冷たいままだった。


「ダメですか?」


と君は聞いたが、うつむいたままの僕を見て、すぐに


「私が酔っ払いの気まぐれだと思って軽蔑してるんでしょう」


と怒ったように言った。


「そうさ」


僕は開き直って続けた。


「そっちこそ、くよくよ酔っている僕のどこに魅力があるというんだ?君が僕に好意を持っているなんて信じられない。君こそ、僕を見て哀れなやつだと軽蔑しているんだろ…」


言い終わらないうちに、君は急に傘から手を放して僕の手を強く引いた。

ビニール傘がアスファルトに転がって、水たまりを叩く音が後ろで聞こえた。


君はやわらかくて、ほのかに海の香りがした。


そして、僕の指先は君の背中に急激に暖められ、腫れて充血したようにじんじんと脈動した。


「私ね、お父さんいないの。」


なんの脈絡もなく君は言った。


僕は君を抱き寄せながら、逆に広い海に抱かれているような不思議な気持になった。


僕のうずくように重いわき腹の痛みは勢いを失い、溶けていった。


そして、僕の頭の中に広がる君の音楽は最高潮に達し、僕はその場に崩れ落ちてしまいそうなほどの快楽を感じた。


君は僕を見上げて目を閉じた。


僕は少し迷ったが、君の肩をそっと離した。


僕を責めるような目をする君に、


「いや、そうじゃないんだ。これ以上は、音楽が終わりそうで…。これは僕にとって大切なんだ。」


と僕は正直に言った。


君はまたその全てを包むような透き通るように輝く目をして、なぜか理解したように頷き、


「じゃぁ、LINEさせて」


と言った。


「もちろん」


僕は笑顔で君と別れた。

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