第4話 ラムと手

ホテルの周りをうろうろしていると、古びたビルの階段の前に看板があった。


『Bar Campana』


入り口の重そうなドアを前に僕は一瞬躊躇したが、思い切って開けた。


「いらっしゃいませ」


そこには“バーのマスター”とは対照的な印象の、心底人のよさそうな小太りの”おっちゃん”が立っていた。


”おっちゃん”は、古いが清潔感のある店内の、真ん中寄りの席に僕を案内した。


「ジントニックを」


と僕は言ったが、それは重いドアに冷たく反響した。


静かに差し出されたグラスを口に当てた瞬間、爽やかな香りが鼻に抜けた。


口に含むとトニックウォーターとジンの絶妙なバランスの上に、ライムの甘酸っぱい香りが鋭く走り、僕の憂鬱を洗い流すかの様だった。


彼は普通の“おっちゃん”ではない、“マスター”なのだ…僕は訂正する他なかった。


そして、空腹で死んでいったばぁちゃんの命日にジントニックを美味いと飲んでいる自分を、心底クズだと思った。


「次、何か飲まれますか?」


おっちゃん...いやマスターが尋ね、強い酒が欲しくなった僕は


「ラムをロックでください」


と頼んだ。


「ロック?」


とマスターは少し驚いたようだったが、すぐに落ち着いた声で


「わかりました」


と言い、冷凍庫から氷のブロックを取り出し、丁寧に削り始めた。


氷をナイフで削るなんとも言えない軽妙なリズム。


そのリズムが四角い氷をみるみる丸くしていく。


「ラムを飲むと楽しい気持ちになるんです」


薄暗い店内に光る鋭いナイフが放つ軽快なビートに、僕は気を良くしてそう言ったのだが、それはなぜか自分自身に冷たく響いた。


マスターはそれを、透き通るように透明で、けれども怪しく光るグラスに入れ、上からラムを静かに乗せるように注いだ。


琥珀色のラム酒に表面を洗われた氷は、その不規則な断面が光を乱反射しグラスの中で宝石の様に光っていた。


私はしばらく見入っていた。そして、


「奇麗ですね」


となんとも無粋なことを言ってしまったのだが、


「ありがとうございます。頑張って削った甲斐があるってもんです」


とマスターは笑いながら言った。


その笑顔に僕の心は軽くなって、手を伸ばしてグラスに触れたのだが、その瞬間、指先に鋭い痛みを感じた。


最後にばぁちゃんと会ったのは夏に帰省した時だった。


「こんちはー!」


と明るく居間に入ると、


「あー、よう来たねぇ」


と振り返ったばぁちゃんの顔がにわかに明るくなった。


「最近元気にしてるん?」


から始まり、僕はばぁちゃんに近況を伝えた。


ばぁちゃんは、


「昔はこんなかったあんたが、もう立派に働いてるとはねぇ…」


と言い、何本も横線の入った柱を見た。


それから僕たちは昔の話をした。


「昔よくそこの柱で頭を打って、泣きながらばぁちゃんのところへ行ったよね。そしたら―痛いの痛いの飛んでけーって。あれ、不思議と本当に痛くなくなったんよね」


と懐かしんだり、


「そういえば、小学校の算数の宿題をばぁちゃんに教えてもらった時、5点やって先生に怒られたよねぇ」


と意地悪を言って笑ったりした。


夕方になり、


「そろそろ帰ろうか」


と僕は言い立ち上がった。


庭先まで僕を送るばぁちゃんに、


「じゃぁまた今度ね」


と僕が言うと、不意にばぁちゃんが僕の手を握った。


そして


「これで最後かもしれんけん」


と僕の目を見ながら言った。


夏の夕暮れは汗ばむように暑かった。


まだ元気に鳴いているセミたちの声が僕の頭の中の硬い壁に反響し、耳鳴りがするようだったが、ばぁちゃんの目はまっすぐ僕を見ていた。


「何言ってるん。まだまだ若いんやから、長生きせないかんよ」


と僕は無理に笑顔を作って言いながら、そのばぁちゃんの骨のような指先の細さを見てゾッとした。そしてその細い骨の集合体は、僕の腕を伝達し、首の付け根を凍らせるようだった。


「ばぁちゃん、ちゃんと食べてる?」


「ばぁちゃんは老い先短いからええんよ、あんたこそしっかり食べないと」


僕は敢えてその言葉を吹き飛ばすように笑ったが、そのばぁちゃんの手の冷たさは、いつまでも僕の手に残るようだった…。


僕は冷たいグラスを両手で握り、ラム酒を口に含んだが、それは僕の憂鬱を吹き飛ばしてはくれなかった。


反対に、飲めば飲むほど僕の手の中にあの時の感覚が蘇ってくるようで、僕はそれを振り払うようにグラスを煽った。


そして打ち合わせの帰りにタクシーから見えた、小学校の校門に据えられた立派な石碑を思い出していた。


子供たちがキャッキャとはしゃぎながら、その石碑の周りを走り回っていた。


『正しく、やさしく、つよく』


と立派な文字で彫ってあった。


正しく、やさしく、つよいこと。本来人間は皆そうなのではないか。そしてそれ以上のものが本当に必要だろうか。


それが、人と交わり、大人になり、会社に入り、金を稼ぎ、老いていきながら、次第に歪んでいくのではないか-これこそが“自分にとって”正しい道なんだ―そう自分の心の底に眠る本心に、薄っぺらい卑怯な嘘をつきながら……。


―僕を何よりも大事に育ててくれた祖母の死を放り出してここにいる僕は果たして正しいのだろうか、やさしいのだろうか、つよいのだろうか。


―我慢して飢えて死んでいったばぁちゃんは正しいのだろうか、やさしいのだろうか、つよいのだろうか......。


僕の中に答えのない疑問が渦巻き、何度も反芻した。


気がついたら僕は泣いていた。

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