なんてことない今日

夜長 明

ひとこと

 近所の人にちゃんと挨拶しなさい、と小学生のころ、よく母に言われた。

 中学校では野球部に入り、そこでも先輩にはきちんと挨拶をするようにと言われた。

 高校生になってバイトを始めると、従業員に挨拶することは当たり前だということを教わった。

 僕の中の挨拶は大事だという信念はそうやって形成されてきたといえる。人見知りがちな僕はもともと挨拶が苦手だった。けれどそれが当たり前になった今は、むしろ挨拶しないと落ち着かないくらいだ。だから、毎日欠かさず言うことにしている。

「おやすみ」

 寝る前の挨拶は、口にすると本当に安らかな気分になる。

「うん。おやすみ」

 僕の挨拶に彼女が答える。

 これだけのことが、とても幸せなことなのだと思う。


「おはよう」

 と僕は微笑んだ。

「おはよう」

 と彼女も笑った。

 朝にするべきことはコップ一杯の水を飲むことでも軽く運動をすることでもない。本当にすべきは挨拶だ。笑顔であれば、なお良い。

 彼女──篠田結衣しのだ ゆいと一緒に暮らし始めて今日でちょうど3週間が経つ。大学のサークルで知り合った僕らは卒業してすぐにこの安アパートに住み始めた。いろいろなトラブルもあったけれど、彼女と一緒の生活は新鮮で、やっぱりとても充実している。

 今日は2人とも予定が何も無い。こんな日はめったにないから、2人でどこかへ出かけるべきだろう。

 結衣は朝ごはんの準備を始めていた。その後ろ姿に声をかける。

「今日どこか行こうか」

 結衣は味噌汁を小皿にとって味見をして、それからゆっくりと振り返った。

「うーん。今日はのんびりしたいかな」

「じゃあそうしよう」

 せっかくの休日ではあったが、休む日と書いて休日だ。忙しなくあちこちへ出かける日は休日とは呼べないかもしれない。そう考えると、本当の休日を過ごす人は意外と少ないのではないか。そんなことを考えていると、朝ごはんがやってきた。献立は味噌汁とご飯、それから焼き鮭だった。

「いただきます」

 食事の前の挨拶は手を合わせてする。


 食器を僕が洗い、結衣が水気を拭き取って棚へしまう。家事はできるだけ共同で行うというのが2人のルールだ。とはいえ料理に関しては彼女に任せっきりになってしまっている。何とかして出来るようにならなければいけない。そのためにこっそり料理の練習をしていることは秘密だ。

 食器を片付け終わり、しばらく静かな時間が流れる。僕も彼女もあまり多弁な方ではない。話すことが苦手なわけではない。けれど沈黙が苦手でもなかった。

 僕がこうしてくだらない考え事にふけっていると、たまに彼女と目が合う。そうすると決まって彼女はふんわりと笑う。まるでゆっくりと花が咲くみたいに。それを見て僕も思わず笑う。交わす言葉がなくても、僕たちはきっと通じあっている。彼女の気持ちが本当に分かる訳ではない。けれどそんな気がする。そうであったら、なんて素敵だろうかと思う。


 そうして何事もなく穏やかに、今日という一日は終わる。そしてまた明日がやってくる。その繰り返しが人生というものだ。

 隣で眠る彼女に、今日も声をかける。

「おやすみ」

 たった一言が、人生に意味を与えることもある。そんなことを思った。

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