act.4 異界の車窓から

「よう旦那」


 サブではないそいつは右手を挙げ、調子よい、けれど気の抜けるような声をかけてきた。

 背丈はドアの高さからして、140センチくらい。ラグビーボールのような体は、長く真っ黒い毛でおおわれており、そこから、細く黒い四肢が伸びている。体の真ん中あたりについた大きな目は、ギロッとこちらを向いている。白目が異様に大きなその目はそう、漫画だ。漫画から飛び出してきた、キャラクターのようなそれだ。

 俺は驚いて、運転席側のドアに背を預けた。腕がクラクションに当たっているので、甲高い音が車外にこだまする。俺は慌てて腕をハンドルから離した。


「驚かせてすまんね。何、ちょっと休ませてほしかっただけさ。邪魔するよ」


 そいつは勝手に助手席に座ると、ドアを勢いよく閉めた。


「お、おおおい。お前、なんだ。何、勝手に乗ってんだ!」


 鼓動が早まり、声が上ずる。

 突然わけの分からないやつが、断りもなく座ったこの状況。俺は混乱の中、次の言葉をひねり出そうと必死だった。


「いや、一日中歩いて、くたくたになっちまってよう。ほんのちょっとだ。宿り木にさせとくれよ」


 気の抜けたような声で、そいつは言った。


「駄目に決まってるだろう! いい、いいから早く降りてくれ」


 声がかすれ、口が乾く。


「降りるっつってもよう……この行列だぜ。見てみな」


 俺はそいつの促すまま、窓の向こうへ視線を動かす。

 そして、再び声にならない声をあげた。

 先ほどまで俺は、明治通りを職安通りに向かっていたはずだが、そこに見えるのは全く別の光景だった。周囲にいた車の姿はなく、景色は全体的に赤黒い。両端に建っていた鉄筋コンクリートのビルは、どれも木造の建物に変わり、窓から橙だいだい色の灯りがこぼれている。俺の車とその建物の間を通り過ぎるのは、傘に、提灯、屏風に凧。箒に本に、でかいタワシと草履。視線を上げれば、何かがユラユラと同じ方向へ流れるように飛んでいく。人の形に近いものもいるが、どこかいびつで、どう見ても人間ではない。


「これじゃあ旅籠はたごどころか、木賃きちんも入れやしねえ。オイラ今日、郷里くにに帰るつもりだったんだがよお。あの地震だ。帰ろうにも列車も篭もダメだってんで、他のと一緒になって、ああやって歩いてるってわけよ」


 そいつは細長い足を組み、得意気に言う。


「まぁ歩くのは慣れてるけど、座り込んで休むわけにもいかねぇからよ。ほんのちょっとでいいから、休ませてくれ。な、後生だからよ」


 今見えるものすべてに、思考が追い付いていかない。


「いや、その前に……え? これ、俺、新宿にいたんだけど。っつうか、なんだこれ。夢か?」


「ははあん。人間っぽいと思ったが、やっぱりお前さん、こっちの者もんじゃあねえのか。どおりで……おっと、外に出るなよ。オイラぁ、食わねえがよ、その辺歩いてる奴は、どうかわからねぇんだ」


 そいつはケケケと下品に笑う。

 俺は背中に汗を感じながら聞いた。


「ここは何処だ。というか、見えているのは、ありゃなんだ」


「ここは神様の通り道。神様つっても、色々いてよぉ。日の本をまとめる奴から、ここを歩いているやつらみたいなのもいる。ここじゃあ、俺たちがまともで、お前さんが異形のものってわけよ。煙草、オイラもいいかい?」


 俺が返答する前に、そいつは長い体毛の中に手を突っ込み、煙管きせると刻み煙草、マッチを取り出すと、器用に火をつけ、煙を吸った。


「まぁこうしてオイラがここに入れたのも、本当はありえないんだが……これも何かの縁だ。オイラ、オグシエモンっつうんだ。お前さん、名前は……」


 俺は自分の名を伝えた。いや、俺の意思に反して、言葉が口からこぼれるように出てきた、と言った方が正しい。こんな化け物に名乗る法など、俺は持ち合わせちゃいないのだ。


「うーん……お前さん、故郷くにはどっちだい」


 そいつは目の下の毛を撫でながら俺に聞く。


「……大分だが」


 またしても俺の口は、勝手に応えてしまう。


「そうか、あっちの方で、少し前……あ、いや、お前さんたちにしてみりゃ、随分前になるのか。お前さんに会ったことがあるような、ないような」


「なんだそれ」


「まぁなぁ、あっちへ湯治に行くことなんかもよくあるし、お前さんみたいな面した人間は、世界に沢山いるしなあ。気のせいだ。忘れてくれ」


「はぁ……」


「あ、そうだ。お前さん、夕餉をとったか?」


「夕餉……ああ、晩飯。いや、ずっとこの状態だから」


「そうか。いいもんあるんだ」

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