act.3 遭遇

「こりゃ、思った以上にひどいな……」


 俺は窓を少しだけ開けると、煙草に火をつけた。


「こっちでこれだけ揺れたんですからね。それにしても、気の毒に……東北の事をことを思うと、いたたまれねえ思いでさぁ……」


 サブは画面に釘付けのまま返した。


 車は遅々として前進せず。漸く数メートル進んだと思えば、止まるを繰り返す。

 日が落ち、ようやく赤坂見附に差し掛かった頃、シバが歩道を歩く義父を見つけ、呼び止めた。駆け寄る義父に俺たちはあいさつし、少し会話を交わす。その後、義父と共に帰ると、シバは車を降りた。

 彼が嫁の家族と住むのは、俺たちが向かう方向とは正反対の、深川方面。片づけを手伝うからと進んで乗った彼だが、これだけ車が動かなければ、家に帰した方が正解だ。

 2人になった車内は、状況を伝えるテレビの声であふれていた。

 ここまでがさっきまであった事。


 四谷を越えたら渋滞はなくなるだろう。そう踏んでいたが、甘かった。

 依然として列は続き、俺たちは自分の脚より遥かに速い鉄の箱に入ったまま、自分の歩速より遅い車たちの動きにとらわれたまま、ただ座っているのである。

 このまま新宿南口を通過するのは危ういと、渋滞が緩やかに見えた富久町方面へ曲がってみたものの、やはり列は動かず、引き続き、先を急ぐ列は続いた。

 地下鉄の入り口には、人があふれ、両側の歩道は電車やバスを諦め、トボトボと歩く人が壁を作っている。家か職場か、どこかへ連絡を取りたいのか……普段使われていないような公衆電話にも人は群がり、その周辺は、流れる人混みが大きく膨らんでいた。


 やがてとっぷり日が暮れ、時刻は20時にさしかかろうとしていた。

 角海老ビルの向こう側。明治通りの先で巨大なクレーンが、長いアームをもたげているのが見える。

 火災ではないようだ。

 屋上に逃げて下りられなくなった人か、もしくは看板か何かが落下したのだろうか……。ともかく、あのビルの屋上に何かあるのだろう。クレーンの下では、最早何の意味もなさない交通整理が実施されている。

 これは、このまま真っ直ぐ進んでも仕方がない。そう思った俺は、目の前を横切る明治通りを右折した。


あにさん。ちょっといいですか?」


 サブが口を開く。


「どうした」


「その、こんな状況であれですがね。ちょっと、トイレに……」


「ああ、いいよ。どうせ動かねえんだ。そこのコンビニに行ってきな」


 それもそうだ。少なくとも車中に閉じ込められて、数時間。生理現象も起こるだろう。サブが下りようとしたとき、俺の腹の虫が、彼を引きとめろと鳴いた。


「ああ、サブよお。ついでに何か買ってきてくれ。これじゃあ、途中で何か食うってのも、できないだろうしな」


 俺はズボンのポケットから財布を取り出し、中から1万円を抜き取ると、サブに手渡した。


「酒以外で、食う物と飲み物。なんでもいいや」


「合点承知。ではちょっと行ってきやす」


 そういうとサブは元気よくドアを閉め、車の左前方に位置するコンビニの中へと消えた。

 俺はポケットから新しい煙草を取り出し、火をつけた。白い煙が、ゆらゆらと暗がりを踊る。煙と共に抜けるメンソールの冷たい甘さが、今はやけに強く感じた。

 ひとしきり煙のダンスを追った後、俺は改めて歩道を眺めた。ビルの灯りはついているので、電気は通っているみたいだ。

 時折、前の車がほんの少しだけ進むので、ブレーキを緩め、また止める。それすら面倒になった俺は、ギアをパーキングにし、サイドブレーキを引いた。どうせまた何十分も動かないのだ。余計な労力は使いたくない。

(それにしても、この一様に流れていく歩く人々は、どこから来て、どこへ行くのだろう。その辺に自宅があるわけでもないだろうし、電車運行が再開するまで、ああして次の駅まで歩いていくのか、それとも、徒歩で遠くの……それこそ八王子や、さいたまや、神奈川まで帰るのだろうか。ああ、腹が減った。サブのやつ遅えな。車でなければ、左手に見える居酒屋にでも入れるのにな。いや、皆考えることは同じか、よく見りゃ人が暖と飯を求めてごった返してやがる。しょうがねえな。ああ、なんだなんだ。ありゃ喧嘩してんのか。こっからじゃよくわかんねぇが、これから帰るのに体力使うだろうに――)

 そんなとりとめのない事を心で呟きながら、その前を流れる人の群れを、俺はぼんやりと眺めていた。その緩やかな窓の向こうの世界を眺めている内に、俺は瞼が重くなるのを感じ、まどろみへ足を入れようとしていた。

 そこへ助手席側のドアが開く音が車内に響き、俺は覚醒して振り向いた。

 開けたのはサブではなかった。というより、それは明らかに人間ではなかった。

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