その時、脳内に一縷の光が漏れ出した。ありのままの言葉を用いてその沈黙を破り、優しい声をかける。紺色の靴を履いたその子は、パァっと顔を輝かせてーーー。

なんて書く事が出来たら、なんと良かった事だろうか。残念ながら、そんな勇気があるはずもなく、永遠にも感じられる沈黙を破ったのは、紺色の靴を履いたその子の方だった。

「おなかがすいた。」

「お、おなか?」

「うん、おなか。」

「そ、そっか。おなかか。なにか食べようか。」

「ちょこめろんぱん。」

そう言うと紺色の靴を履いたその子は、黒い板を無意味に掲げる事に無駄に時間を費やす右手とは対照的に、ぶらんと肩からぶら下げられた左手の袖を、その小さな手で掴んだ。細い指でくいくいと軽く引っ張り、だらしなく垂れ下がる左手を揺らすと、ゆっくりと歩き出そうとする。その手は子供体温ではすまないほど暖かく感じられた。

「熱が…!」

「ねつ?」

「手が熱いよ!」

「すこしくらくらする。でもおくすりはもってる。」

「おくすり??」

風邪薬だろうか。この身なりの子が常備薬を持っているという事か?

「おくすりのむには、ごはんをたべなきゃ。ちょこめろんぱん。」

「そ、そうだね。なら、コンビニに行こっか。キミ…キミの名前は?」

その子は唇を噛むように黙り込む。言いたくないのだろうか。

「じゃあ、紺。紺って呼んでもいいかな?」

「こん。なんかかわいい。」

どうやら気に入ってくれたようだ。紺と出会って間もないが、その中で一番明るい顔をしてくれた気がした。紺はそんな顔で脇をすっと通り抜け、路地裏を抜けようとする。自分もそれに習おうと踵の向きを百八十度変える。ふっとスマホの明かりが灯る。電波の糸を辿ろうか?とでも聞きたげなその明かりを無視してカバンの中に乱暴に投げ込むと、その右手で傘を空に向けた。2人とも恐らくもう必要ではないであろう程にびしょ濡れであり、吹き抜ける風は酷く冷たいものになっているのだが、先程までの牢獄のような空模様に出来る精一杯の抵抗の賜物なのか、少しだけ、ほんの少しだけ、暖かくなった気がした。大人の足では一歩先、でも子供の足では三歩程だろうか。紺がチラッと振り返る。

自然と表情筋が弛んだ事を、無意識故自分で気付くことは無かったが、紺にはしっかりと伝わっていた。無言で紺の横に並ぶと、精一杯の領域に紺を入れ、薄暗い道を、歩き出した。

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