ポケットからスマホを取り出す。時刻は7時半を過ぎていた。出社時間は午前8時。どう考えても、どんなルートを辿っても、間に合うわけも無かった。暗い気持ちで画面を見つめる。その画面にはあっという間に雫が溜まり、既に手のひらまでつたい落ちている。その様に、今雨が降っていて、自分がずぶ濡れのままやってきた事を思い出した。

7時半を訴えかけていた液晶は、用が無いなら、と言わんばかりに灯していた明かりを消してしまった。操作をしていないのだから、それは当然なのだが、どんよりとした空模様も相まって辺りが余計に暗くなった気がしてしまう。

ただの黒い板と化したスマホを右手に、ただ立ち尽くした。

このままこの画面に光を点し、電波の先に繋がる取り慣れてしまった受話器の先の、逆らえぬ嫌味を聞く事が、望む望まざるに関わらず、20歳を超えた人間の正解である。それが分からぬ訳ではない。分からぬ訳ではないのだが。

ふっと、聞き覚えのない高い声が、そんな思考の迷路に響きわたった。

それは、まるで断崖絶壁を前にしたかのように、一歩も動けない姿を、いつの間にか目の前で観察しているであろう、紺色の靴をはいた子供の声だった。

「そんな所で、何をしているの?」

その声は、無視することが出来ないあの泣き声と同じ、消え入りそうな、それでいて生きる事に執着しているような、諦めているような、助けを求めているような声であった。さっきまでと違う事と言えば、泣いていない事と、突然目の前で電球の切れた街灯のように無意味に突っ立っている見知らぬ大人への警戒心が混ざっている事か。泣いていないか否かはこの土砂降りの雨の中、傘をささない2人には判別できる由も無い訳だが。


なんと言って返せばいいのだろう。君を助けに来た。それは違う。助ける事なんて考えてなどいない。

君が泣いていたから来た。それはそうだが、何故かと返されたら答える術がない。

何となく来た。これも全くもってその通りだが、恐らくこの子が求めている疑問の答えにはなり得ない。


数時間とも感じる重い重い3秒間が、脳細胞を押し潰すが如く、どれだけ頭を回転させても、最適解たる言葉が浮かばないまま、為す術もなかった。

鉛のような頭を抱えつつ、その子へと視線を落とす。

色あせ、襟や袖がクタクタになったTシャツに、元々は何かキャラクターのようなものが縫い付けられていたであろう事がかろうじて分かるゴムの伸びきったズボン。手に持っているぬいぐるみであろう何かは、黒ずみ、ほつれ、毛糸とコットンをごちゃ混ぜにしたようになってしまっていて、沢山の雨水を吸ってまるで濡れた長い髪の毛のように垂れ下がっていた。

どうか、この子の興味が自分から逸れて、元気な子供のように走り去ってくれますように。この身なりの子供にかけるには余りにも酷な願いを心の内で唱えながら、はやる鼓動とはまるで正反対の長い長い沈黙を2人、止む気配のない雨がまるで牢獄のように、覆いかぶさっていた。

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