第57話:逢いたくて、苦しくて、せつなくて、だから

 細長いスリットのような窓からは、日本で見ていたような銀色の月ではなく、青白い月が浮かんでいるのが見える。

 比喩とかじゃなくて、冴えわたる青白い月とかでなくて、本当に青白かった。


『──そんなあなたに、興味があるんだよ?』


 艶やかな長い髪が俺の首に触れるくすぐったさ。

 温かな吐息、ぷるんと柔らかな唇の感触。

 耳をくすぐる、小さな笑い。

 重力に従って開いた胸元から見えた、神秘の谷間。


 あああ、だめだ!

 夕方の、あの門前でのやりとりが──彼女の姿、仕草、言葉がちらついて眠れない。

 一度気になると、今度は彼女の笑顔が、ふくれっ面が、いたずらっぽい笑いが、はにかむ顔が、次から次へと浮かんでくる。


『私が短愛称で男性を呼ぶの、その……ヨシくんだけなんだよ……?』


 上目遣いで抗議──だけどどこか不安げな様子だったあの時の言葉。

 短愛称は、自分にとって関わりの深い、大切な相手を呼ぶときに使うらしい。ということは、イノリアにとって、俺は、存在なんだってことだ。


 その意味を考えると、どうしようもないむず痒さのようなものを感じて、固いベッドの上でゴロゴロと一人悶えては我に返って一人恥じ入って、そしてまた悶える。

 話がしたい、イノリアとつながっていたい! ああ、なんでスマホがないんだ、メールがないんだ、SNSがないんだ! スマホもガラケーも無かった時代って、人類はどうやって一人で過ごしてたんだ!?




「ちょ、ちょっとヨシくん……!?」

 たった一晩。

 たった一晩待つのが、こんなに苦しいことだったなんて。


「ねえ、どうしたの……? こんなところに連れてきて、こんな……、苦しい、よ……?」


 彼女の髪からは、前にもかいだ、甘い香りがほのかに漂ってくる。

 背丈は俺とあまり変わらないはずなのに、意外に──と言ったら失礼かもしれないが、小柄で華奢に感じるからだは柔らかくて、これ以上強く抱きしめたら、折れてしまいそうだ。


「ヨシくん……? ねえ、ヨシくん、放して……?」


 スマホの貴重な電池を、今日は使った。目覚ましに。

 イノリアは、夜明け前に城に上がると、イノリアパパは言っていた。

 だから、彼女に会うなら、この、門だ。そう考えて四時にセットし、この門で待っていたのだ。

 ──ずっと、逢いたくて、苦しくて、せつなくて、……だから!


「……ヨシくん、やめて? それ以上はその……ヨシくんのこと、嫌いに──」


 そう言われても、放せなかった。彼女を抱きしめるその腕を緩めるなんて、考えられなかった。このままずっとこうしていたい、そう、真剣に考えるほどに。

 まだ暗いこの夜明けに、横道まで引っ張り込んでの、ハグ。

 我ながら、よく、がもったと思う。いや、十分とは自覚してるけど。




 空はだいぶ明るくなり、もうすぐ日の出だ。王宮も、東の空のしらしらと明るくなってきたその光を受けて、暗い夜空を背景に浮かび上がるような姿を見せ始めている。


「ヨシくんって、変なところで紳士だね」

「変なところってどういう意味だよ」

「そのままだよ?」


 王宮まで無言で歩いてきたイノリアが、何を言い出したかと思えば、くるりと振り返って言った。


「だって、暗い横道で、あんなにぎゅって抱きしめてきたのに、おでこにキス、とかもしなかったから」


 ──したかったんだよ! ホントはしたかったけど、そのあとの反応が怖くてできなかったんだよ!


 突っ立ったまま、何も答えられずにいた俺に、イノリアは小さく微笑んだ。


「でも、うれしかった。──ヨシくん、私に会いたくて仕方がなかったんだよね?」

「……そ、そりゃあ……」


 見栄を張ろうにも、さっきは「逢いたかった」と何度も繰り返しながら、イノリアを抱きしめていたんだ。ここでごまかしたって、かえって無様なだけだろう。


「ふふ……やっぱり、うれしいな」


 イノリアが、一歩、俺のもとに戻る。


「ヨシくんは、やっぱり私だけを見てくれてるんだなあって」


 その額を、俺の胸に預けるようにして。

「私でも、夢、見たくなっちゃうよ……」


 夢を、見る?

 どういう意味なのかが分からず、聞こうとすると、イノリアは背筋を伸ばして一歩下がった。


「じゃあ、私、行くね?」


 そう言ってくるりと向こうを向き──「あっ……」と言いかけてまたこちらを向く。


「ねえ、ヨシくん。姫様がね、ヨシくんとお話したいんだって。午前のお茶の時間、多分いつもと同じ場所──昨日、ラインヴァルト様とお茶会をした、あの四阿あずまやでお茶をいただくと思うの。ヨシくんも来てくれる?」


 ラインヴァルトとお茶会?

 ……ああ、あの中庭みたいなところ──バラに囲まれた、あの四阿。

 不快な記憶と、そして同時に、その後の悶えたくなる甘酸っぱい記憶ともに、思い出す。


「姫様と一緒にお茶会? いいのか? 俺、ただの一般人だぞ?」


 昨日、王宮に入ろうとして入れてもらえなかったことも思い出す。

 あの四阿への回廊は、ラインヴァルトのメイドさんに案内されていたから入れたんじゃないだろうか。もしそうだとしたら、また門前払いを食らいそうなんだけど。

 するとイノリアが、ため息をついた。


「今さら、何を言ってるの? あなたの扱いはだよ? 本来なら、こんな話し方なんて私のほうが絶対にできないお方なんだよ?」

「でも、実際、昨日は王宮に入れてもらえなかったぞ?」


 俺の言葉に、イノリアは「そんなわけ……」と言いかけ、ちょっと考え──


「……じゃあ、これを肩に巻いてくれる?」


 そう言って、自分が肩に掛けていた布──ストールと言うんだろうか、マフラーみたいな長い布を、俺の肩に掛ける。クリーム色に近い、生成きなりの白さの、繊細なレース編みで出来ている。


 両端には、何かの紋章だろうか、金糸の大きな刺繍がおしゃれだ。それを、俺の首にゆるく巻くようにしたあと、残りの布を、マントのように背中側に垂らす。


「これはね、ちょっとした、身分の証明みたいなものになるから。姫様から正式に何かをいただくまでは、それをあなたに預けておくね?」


 多分、王宮でも入れちゃうから、悪さをしないでね? そう言って、いたずらっぽく笑う。


「……うん、ちょっと、王子様っぽくなったかな?」


 満足げに、青い石が埋め込まれた留め具のようなものを左肩側に留めていたとき、朝日がちょうど差してきて、彼女の姿が、明るく浮かび上がる。


 その、輝かんばかりの愛らしい微笑みとともに。

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夢日記《ログ》サバイバー!~結末から始めるやり直し!夢日記《ログ》を武器に、あの娘の運命を変えてみせる!~ 狐月 耀藍 @kitunetuki_youran

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