第56話:彼女の唇が、一瞬、俺の頬に

 ──まだ、頬に、あの柔らかな感触が残っている。


「──現実、だよな……?」


 あまりにも嘘くさく感じてしまうが、どう思い返してみてもだった。




 不味い昼飯をさっさと胃袋に押し込んだあと、俺は食堂を出て、しかし当てもなくふらついていた。何をすればいいのかさっぱり思いつかず、とりあえずイノリアに会いたいと思ったがその合う手立ても思いつかず、といった有様だったからだ。


 携帯電話などないから、一度この広い宮廷で別れてしまったら、もう、会う手立ては限られる。俺が探して会いに行くか、彼女が俺を探して会いに来るか。もしくは、通るであろう場所に陣取って、やってくるのを待つか。

 王宮に乗り込むことも考えたけど、衛兵が俺という不審者を入れてくれなかった。また大声で叫んでやろうかと思ったが、よく考えてみたら彼女は仕事中なのだ。俺が逆の立場だったら、仕事中にフラフラやってきて特に用もないのに呼びつけてくる男がいたら、間違いなく幻滅する。


 結局、門の前で待つことにした。そこなら、夕方には必ず彼女が通ると踏んだからだ。

 はてしなく、ひたすらに暇な半日だったが、門の前で、門番の兵が一定時間ごとに入れ替わる大げさな仕草を見ているのは面白かったし、出入りする人間──おそらく何らかの業者から他国の使者か何かまで、門を通るためのやり取りとかを見ていても、結構興味深かった。


 半日それで門の前で過ごしていたのだが、夕方、日も落ちて薄暗くなってきたころに、見落としかねない地味なドレスの女性を見つけた。

 最初はお供も連れず、下を見るようにとぼとぼ歩いてくるのを見て、どこかの村娘が年貢の軽減の陳情にでも来た帰りなのかと思っていた。うなだれるように歩くその姿に、交渉がうまくいかなかったのかもしれないと勝手にあれこれ想像していた。


 ところが、たまたま顔を上げたその女性が、妙に見知った顔に見えたと思ったら、立ち止まり、そして、急にこちらに向かって駆け出してきたのだ。思わず立ち上がり、中腰になって身構えたら──


「もう! 探したんだから!」


 怒ったような声で──だがどうしようもなく嬉しそうな顔で走ってきたのは、イノリアだった。


「……探した?」

「探したよ! だってお部屋に行ったのに、誰もいなかったんだもん!」


 近くの人にいろいろ聞いて回ったのに、誰も知らなくて本当に困ったと、彼女は荒い息のままに、俺の隣に腰を下ろした。


「どうしてこんな、門なんかにいるの?」

「いや、ここならイノリアに会えると思ってさ」


 俺の言葉に、イノリアが目を丸くした。


「私がこんなところにいるわけないじゃない、どうしてこんなところに会いに来たの?」

「いや、だからここなら、いずれイノリアが通ると思って」

「いずれって……」


 彼女が絶句する。

 俺の言葉にいちいち驚くのが面白い。


「……いつからここにいるの?」

「昼過ぎかな?」

「……呆れた。ヨシくん、昼過ぎからずっと、ここに?」

「まあ、人通りを見てるのは、それなりに楽しかったけどね」


 イノリアは呆れたようにため息をつき、そして力なく笑った。


「王宮に来てくれれば、姫様の習い事の合間にお話だってできたのに」

「入れてもらえなかったんだよ、追っ払われた」

「そんなわけないじゃない。ヨシくんのことは衛兵さんにもつたわっているはずだし、ちゃんと名前と、誰に会いに来たかを言えば通してもらえたはずだよ?」

「言ったぞ? でも不審者扱いだった」


 そんなはずは──と言いかけて、しかし俺の服装を確かめるように上から下まで見て、そして言った。


「……確かに、庶民的すぎるもんね、その服」

「おい! イノリアの御両親が選んだんだぞ?」

「ごめんね、それ、私が街で目立たないようにするためにって選んだの。だってヨシくんの服、あんまりにも私たちが着てる服と違うから。黒ずくめっていうのも、怪しいし」


 いや、部活のジャージとウインドブレーカーだよ! 黒ずくめって言っても、ちゃんと反射材とか白のラインとか入っているし! 胸には高校名、背中にはTRACK and FIELDって、カッコいい白字で書いてあるし!


「その、ブカツとかよく分からないけど、あの服、考えてみたらあからさまに怪しいもん。街の衛兵につかまっても、文句言えないよ?」


 ひとしきり笑ったあと、イノリアはため息をついて、そして謝った。


「……ごめんね? ずっと、ここで待っててくれたんだね」


 俺は謝らせたくてここにいたわけじゃない、イノリアに会いたくてここにいたんだ。

 そう言うと、イノリアはくすりと笑った。


「なあに? 私を口説いてるの?」


 そういうつもりじゃ──言いかけて、気づく。


 どう考えたってナンパだよな、さっきの俺の言葉は。

 軽薄野郎に見えたかもしれない。そう思って頭を抱えると、イノリアが、ふふ、と笑った。


「──いまさら、そんなことしなくていいのに」

「……え?」


 ベンチから立ち上がったイノリアを見上げる。


「ねえ、ヨシくん。私ね? ラインヴァルト様のこと、ずっと憧れてたの。強くて、格好良くて」

「え、今それを言う?」

「でもね? それだけ。舞台の上に立つ役者を見るような、そんな気持ちって言ったら、伝わるかな?」


 舞台俳優とか、テレビのアイドルを見るとか、そういうことだと言いたいんだろうか。


「それでね? いまは──」


 くるりと振り返る。

「強くて、優しくて、でも私のことになるとすぐ怒って、なんだか危うくてほっとけない──」


 そう言いながら、俺を覗き込むようにしてくる。


「──そんなあなたに、興味があるんだよ?」


 不意打ちだった。

 世界がスローモーションになる、そんな錯覚を覚えた。

 彼女の唇が、一瞬、俺の頬に触れた、その瞬間。


「ヨシくん、次は、あなたからくれると……うれしいかな?」


 じゃあ、また明日ね? そう言って、イノリアは門の方に消えていく。

 しばらく俺は、ベンチで固まっていた。

 何があったのか、何をされたのか、しばらく頭が追い付かなかった。

 これが現実リアルだと、しばらく脳が認識できない、みたいな。


「……キス、されたんだよな? 俺……」

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