第50話:これからもイノリアって呼ぶよ

「──娘のこと、、と、君は呼んでいるようだね?」


 うわあっ!?


 やっぱマズかったのか!

 

「さあ、娘と、互いに短愛称で呼び合うヨシマサくん。

 君は、いつ、どこで、娘と知り合ったんだい?」

「彼女を助けたあの時です!」


 この時間軸では初対面だったはずなんだから、嘘は言っていない。少なくとも、イノリアにとってみれば。それについては事実なんだし、もうこれで押し通すしかない!

 あの拷問にも(気絶して)耐えたんだ、何とかごまかして──


「ふむ……、もっと劇的な出会いを期待していたんだが……。なんだ、意外に普通じゃないか。つまらん」

「……え?」

「おおい、メイデル! 君の勝ちだ、あの場の出会いが初めてだとさ」

「……は?」


 すると奥の扉から、フリルたっぷりのエプロンを身に着けた、イノリアよりもやや濃い栗色の髪の女性が、にこにこしながら現れた。


「ほら、ごらんなさい。ライアッタの言っていた通りでしょう? 女にとっては、最高の出会いだったと思いますよ? まだお若いようですけど、そのぶん、今後の成長が楽しみですし」


 イノリアの母、アールネガウィン氏の妻──メイディーアリルさんだった。おたまを両手で握り締めながら、なんかくねくねしている。


「初対面から、『イノリア、君を守る!』でしたっけ? ああもう、私もそんな、初対面から情熱的に抱かれてみたかったわねえ」

「おい、メイデル!?」


 なんかすごい誤解をされてる気がする。まるで望まぬ結婚式に参加させられたヒロインを、ギリギリのところで略奪して救った男、みたいな。


「私も、夫とは貴族にあるまじき大恋愛の末の結婚ですからね。『メイデル! 来い!』──ふふ、あのときのあなた、とってもかっこよかったわぁ」


 おたま・・・をまるで扇子か何かのように構え、流し目をするメイデルさんにすっかり押され気味のイノリアパパ。多分、これはそのまま、この家の人物の力関係を表しているんだろうな。


「さぁさ、うちの娘をいいと言ってくださる物好きさんなんですから。少しでもあの子と長くいられるように、早く送り出して差し上げましょう」




 メイディーアリルさんからもらった服は、使用人の私服として支給するものだったらしい。街中まちなかでジャージやウインドブレーカーを着るよりは目立たないだろうとありがたくもらったのだが、確かに目立たない。この街の住人としては、おそらく一般的なんだろう。


 形としてはトレーナーっぽい上着にベスト。ちなみにシャツの素材は……少なくとも綿じゃないことは分かる。ごわごわする生地が直接肌を擦る感覚は、なかなか……イヤだ。


 社会の窓もポケットもなく、当然のようにゴムもない、ひもで締めるタイプのズボン。だぼっとしていて、マンガの不良がはくズボンみたいというか、建築の人がはくズボンみたいというか、ゆったりした感じだ。

 もちろんパンツも綿じゃない。形はトランクスっぽくて馴染みがあるけど、やっぱり社会の窓はない。


 色合いは上下とも枯草色というか、茶色っぽい黄色を淡くしたような色。これに茶色のベストを着て、靴底がダイレクトに木という、くたびれたソフトレザーの靴。

 以上。


 ──すげえ地味なうえに、ノリがきいてるわけでもないのにごわごわ。靴底に至っては木という、クッションもへったくれもない靴。陸上部としてあり得ない固さ。

 「人に優しい」どころか、「人を甘やかさないワイルド設計」な感じだ。


 つくづく、ジャパンブランドの品質の高さと優秀さを、失ってから実感する。

 ジャージやウインドブレーカー、下着など、もらった布袋に詰め込んである。これらは後で洗ってから、大事にしまっておこう。この着心地のよさ、しなやかな柔軟性が、もしかしたらどこかで役に立つかもしれない。


 それにしても、服を詰め込んだだけの布袋のひもが、肩に食い込む。

 ポケット、バックパックといった小道具も、何もかも発明だったんだなあと、改めて身の周りのものすべてが進歩してきたことを実感してしまう。

 イノリアに、バックパックを作ってもらえたりしないだろうか。




「もう。姫様と私の名前を言ってくれたらすぐだったのに」

「言ったよ! 言ったけど門番には全然信じてもらえなかったんだよ!」

「だからって、あんな大きな声で、しかも短愛称で呼ばないでよ! 本当に、本当に、恥ずかしかったんだからね……?」


 大通りにさえ出てしまえばあとは迷うことはなかったんだけど、城門の門番には本当に困った。全然、俺が王女様の客だと信じてもらえなかったのである。……当たり前か。

 昨夜の簡単な手続きは、あくまでもイノリアという顔認証があったからだということをあらためて思い知った。


 で、ホント全く信じてもらえず門前払いの繰り返しだったから、いい加減うんざりして、イノリアの名を全力で叫んでみたわけだ。

 五回目を叫ぼうとして門番に槍でつつかれそうになったところで、イノリアが顔を真っ赤にして来てくれたおかげで入れたんだけど。


 俺が目を覚ましたということで、姫様──俺の主であるオルテンシーナは自主謹慎を解いたそうだ。

 そんな程度で解ける程度だったのかというと、いくら貴族の息女とはいえ、使用人のために謹慎するということ自体が、姫様の慈悲深さの表れなんだという。


「まあ、本音のところは、ヨシくんとお話ししたいから、なんでしょうけどね?」


 そう言って笑ったイノリアは、落ち着いた色合いの深い緑を基調にしたドレスを着ていた。

 昨夜のドレスとは違って、露出しているところはほとんどない。

 腰回りは昨夜のドレスよりも気持ち膨らんでいる感じがするし、レースとかフリルとかがふんだんに使われているので、きっとさらに上等な服なのだろう。それでもやっぱり、以前見た王女様の服のほうが豪華だったように思う。

 ただ、こういう服を見ると、改めて彼女は王女様付きの侍女なんだ、ということを感じる。




 宮廷を迂回し、奥に向かう。どこに向かっているのかを聞いたら、姫様の庭園だという。ちょうど散歩の時間だから、ということらしい。


 道の両脇は刈り込まれた生垣で、石畳の隙間から延びている草の葉を踏むと、ミントのいい香りが漂ってくる。多分、正確には俺が踏んだ、というよりも、前を歩くイノリアが踏んだ葉の香りなんだろう。

 あえて、香る葉っぱの草を隙間に生やしているのかもしれない。


 時間帯のせいなのか、そもそも王族のプライベート空間に入ったからなのか、人の姿は全くない。

 離れたところから人々のざわめきがわずかに聞こえては来るが、小鳥のさえずり、木や草の葉ずれの音が、かえって静かさを感じさせる。


「へえ、いろいろ習い事で大変だって言ってたけど、ルティにも自由時間があるんだな」

「自由時間じゃないよ、お散歩の時間」

「……なんだそれ、ひょっとして時間割で決められてるの?」

「そうだよ?」

「……じゃあ、散歩自体が強制か。ルティも大変だ。付き合うイノリアもな」


 学校でいう、体育の扱いなのかもしれない。

 気の毒に、とため息をつくと、イノリアもため息をつき、立ち止まると振り返った。


「……ねえ、ヨシくん。ヨシくんって、誰にでも短愛称で呼ぶの?」

「え、どういうこと?」


 イノリアの言葉の意味が分からず、聞き返す。


「今も姫様のこと、ルティって呼んだでしょ。不敬罪どころじゃ済まないんだよ?

 それにさっき、ものすごく大きな声で、私を呼んだでしょ。イノリアーって」


 ……ああ、さっき、それですごく恥ずかしかったって言ってたっけ。


「ヨシくん、せめてライアッタって呼んでくれたらよかったのに」


 イノリアが不満そうに言う。


「そういえば、家族にはそう呼ばれてたっけ」

「そうよ。王宮でも、仲のいい子にはそう呼んでもらってるの」


 ──なるほど。

 それが正式な愛称というわけなんだろうか?


「私の名だと、愛称はアイノリアかライアッタあたりだから。ライアッタのほうが家族に呼ばれ慣れてるから、好きかな」

「そうか。ライアッタは家族か友達用の呼び方なんだな。じゃあ、イノリアは?」

「それは……」


 ばっと振り向いたイノリアの頬がみるみるうちに染まっていく。足が止まり、うつむいてしまう。

 そのまま、辛うじて聞こえる小さな声で続けた。


「その名で呼ぶ人なんて、今はまだ、いないんだよ……?」

「あ、じゃあ、俺が一番乗りってことか?」


 間違った呼び名ではないことに安心するとともに、俺以外のやつはまだ使っていない呼び名ということに、ちょっとした喜びを感じる。

 しかし、イノリアは頬を赤く染めながらも、ちょっと怒ったような顔になった。


「ヨシくんは、短愛称を何だと思ってるの?

 私、その呼び名はずっと大事にとっておいたんだから。一番乗りとか、そういう軽い気持ちだったんなら、困るんだけど……」


 ……ああ、しまった。そういやイノリアパパが言ってたっけ。短愛称ってのは、特別親しい相手と呼び合うためのもの……だったか?


「そんな軽い気持ちで呼ぶんなら、ライアッタって呼んで。なんならアイノライアーナにして」


 軽い気持ちとかそういうものではなかった。ただ、俺にとって彼女は、ずっとイノリアだった。

 そもそも、初めて知った彼女の呼び名が──俺にとって、初めてと思った女性の名が──


「私ね……? ヨシくんとはあのとき、初めて会ったけど、でもで私を助けてくれたんだって思ってたの。

 ──だから、今まで、イノリアって呼ばれても、何も言わなかったんだよ?」


 思わず、ごめん、悪かったと頭を下げると、イノリアは悲しそうに目を伏せた。


「ヨシくん……。姫様を、私を助けてくれたあなたに、こんなこと、言いたくないんだけど……」


 そう言って、顔を上げる。

 悲しそうだけど、しっかり、俺の目を見て。


「……もし、だよ? もし、いい加減な気持ちだったなら、もう二度と、私をイノリアって呼ばないで?

 ──私もあなたのこと、ヨシマサ様って呼ぶから……」


 ……ああ。

 言うべきことははっきりという、イノリアだ。

 悲しそうな目で、でもまっすぐ俺を見て。

 胸元で、固く握りしめられた両手を、かすかに震わせながら。


 ……そうか、短愛称って、ここの人たちにとっては、そんなに大切なものなのか。

 ちょっと気安すぎたかもしれない。


「そっか、じゃあ……」


 譲れないものがあるのかもしれない。だったらまたいずれ、機会があったら。

 そう思いかけて、母の言葉を思い出す。


『──拒否されるかもしれない。

 でも、そうやって相手の愛情を確かめたくなる女の子も、多いのよ?』


 ──そうだ、イノリアは。


『もし、いい加減な気持ちだったなら──』


 、と言った。

 じゃあ、イノリアを大切に思う気持ちがちゃんとある──少なくとも、自信があるのなら。


 だったら、俺は。


「──じゃあ、俺は、これからもイノリアって呼ぶよ」

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