第41話:送り出してくれた人を、忘れないために
その選択が、輝くばかりの未来を切り拓くことを。
このすばらしい世界に、豊かなる未来のあらんことを。
少女の命に応える意志が、世界に変革をもたらさんことを。
捧げられた祈りが、新しい世界の確かなしるべとならんことを。
――――――――――
「目を覚ましたようでございます、殿下」
鼻の奥がツンとする。水が入ったみたいだった。後頭部や背中が痛かった。
俺は……床で寝ていることを自覚した。状況からすると、顔に水をかぶせられたらしい。
そのことに気づいた瞬間、俺は、心底ゾッとした。
さかのぼっていない。
俺は、
どうしてだ?
またあの責め苦を食らうのか?
このときの恐怖は、責め苦を食らうときと同じくらい……いや、それ以上のものだった。
目が覚めたら抜けられる、それだけが正気をつなぎとめていたようなものだったからだ。
「……やれやれ、君は強いのか弱いのか分からない男だね。強情でちっとも認めない根性がありながら、針三本程度で失神する。君をそうまで強情たらしめるものは、なんだったんだい?」
クソ王子の呆れたような、だがなおも楽し気な言葉に、俺は返事などできなかった。
「なんにせよ、君は耐えきった……耐えきってしまったのだよ。なんとも腹立たしいことにね。残念ながら、尋問官、そしてウッズエーナ子爵が三男、ラインヴァルトも証人になってしまった」
腹立たしいと言いながら、無表情に見下ろしながら──しかしどこか、その口調は楽しげだ。
「──君の
──この言葉は、一字一句覚えている。
「そうだラインヴァルト、面白いことを考えたんだけどね──」
俺が黒じゃない、だって?
そう言うおまえは、腹ん中真っ黒グロ之介だろ!!
「で? そのクソ王子とラインヴァルトは結局、お前を解放したわけ?」
「そゆこと」
「で、お前、その拷問の
「……コレ」
「……うわー、この爪の下のこの筋かよ、マジえげつなー……。え、ちょっと待って、薬指のとこの針、なんか太くね? てか、人差し指からだんだん、太くなってるよな?」
「そ。すげえ痛かったんだわ。発狂するかと思った」
「お前、順調に夢に引っ張られてんなあ。次寝たら、もう帰ってこないかもしれねえぞ?」
「恐ろしいこと言うなって」
「ああ! 夢の異世界転移! 俺もしてえ! ダンプとかトラックとかだと怖えけど、寝てるだけで異世界転移なら大歓迎じゃねえか! お前マジ代わってくんね? 俺イノリアちゃんと結婚するから!」
「バッカ野郎。お前にはクソ王子の拷問ごっこにだけ付き合う権利を進呈」
「いらねえよ! イノリアちゃんとのゴールインと、めくるめく初夜の場面だけくれ、てか寄こせ!」
「しね。氏ねじゃなくて死ね」
ああ。
こんな会話。
狂人のたわごとのような話に付き合ってくれる倉木、お前は、マジいいやつだ。
──いいヤツ、だった。
「ほれ、これ!」
奴がカバンから、見覚えのある黒い物体を取り出す。
「お守り。お前の運を使い果たしたラッキーアイテムだろ? おばさんに言って、ポストん中に入れといてもらったの、持ってきてやったぞ」
「そんなもん病院に持ってくんなって」
いつぞやのゲーセンで、倉木とのコンビネーションでゲットした、赤丸ホッペの間抜け面の黒熊のぬいぐるみ。
「何言ってんだ、コイツに吸い取られたお前の
「いらねえって」
そこに、母さんが缶ジュースを持って病室に戻ってきた。
「今日も来てくださって、ありがとね。はい、これ」
「あ、おばさんありがとうございます!」
直立不動になってジュースを受け取る倉木。
母さんが部屋の隅のバッグに財布をしまいに行く間に、倉木が耳打ちする。
「お前の母ちゃん、マジでキレーだよな。ウチの豚と交換してくれ、割とマジで」
「やめろてめえ。人の母親をそんな目で見んな。お前の嫁達が泣いてるぞ」
「あ、そっちは別腹」
「ざけんな」
カバンをごそごそしていた母さんが、四角いもの──何かの写真を俺たちに見せて言った。
「じゃーん! これ、なんでしょう!」
「え、まさかこれ……これがイノリアちゃん!?」
「そう! 大正解! 記念に倉木君にもあげるわね?」
「おばさんサンキューっス! うっわめっちゃ可愛い!! イノリアちゃんだけ切り抜いて拡大して壁に貼っとこ!!」
写真が見れることにも驚くが、印刷できたことにはもっと驚いた。
母さん、わざわざハンディプリンタを買ってきて、俺が寝てた間に病室で印刷したのだそうだ。
「ほら、よっちゃんの話だと、見れなくなることがあるんでしょ? 印刷しとけばいつでも見れて安心よね?」
「安心とかじゃねえよ! なに俺のスマホ勝手にいじってんだよ!」
「あ、大丈夫よ? お母さんのスマホに転送しといた写真を印刷しただけだから」
「おいいつの間にそんなことしたんだよ、なに勝手なことしてんだよ!!」
「おばさん、俺のスマホにも送ってもらっていいっスか!」
「いいわよ、
「バッチリオッケーっス!」
「おい倉木ふざけんなてめえ!!」
しばらく病室にいた倉木が、名残惜しそうに母さんのほうを何度も振り返りながら帰って行った。
あの時は、あとで倉木のやつをぶっ飛ばす、そう思ったものだった。
あとで。
いい言葉だ。
あと、なんてなかったのに。
「あの子が言っていた、『夢に引っ張られる』って、どういうこと?」
倉木が出て行ってしばらくたってから、母さんはぽつりと聞いた。
「いや、あいつアニメとか小説が好きでさ……」
倉木の言う「夢に引っ張られる」の意味について、かいつまんで話をした後の、母さんの顔が忘れられない。
「そっか……。よっちゃんは、お婿さんに行っちゃうんだね? イノリアさんのお嫁さん姿、見たかったなあ……」
感慨深げというか、なにか、憧れつつ実現できなかったことを振り返るようなというか。
──なに言ってんだよ。ただの夢だって。
でも母さんは、聞いているのかいないのか、俺の方を見ているのかいないのか分からない、そんな目で答えた。
「よっちゃんは、その子が大事なんでしょう? お母さん、妬けちゃうなあ」
こことは違う、どこか遠くを見るようにしてつぶやく母さんの言葉の意味が、そのときの俺には理解できなかった。
……いや、ただ理解を拒否していた、それだけなのかもしれない。
「ねえ、よっちゃん。イノリアさんって、どんな子なのかな?」
ただの俺の夢のキャラのはずなのに、母さんはあれこれと聞きたがった。
母さんは夢日記を読んだんだから、おおよそのキャラ設定は分かっていたはずなのに。
俺は聞かれるままに、覚えているエピソードを話して聞かせた。
振り返ると、イノリアの泣いているエピソードばかりだったことを、改めて思い知らされた。デートの日でさえ、彼女を泣かせてた。
そうやって自嘲した俺に、母さんはにっこり笑って言った。
「じゃあ、これからはいっぱい大事にしてあげて、いっぱい笑顔にしてあげればいいんじゃないかな?」
「これからって……俺は、時間をどんどん、さかのぼってるんだぞ?」
「よっちゃんを知らないイノリアさんまでたどり着いたんでしょう? じゃあ、スタートラインについたってことじゃないの?」
「そんな単純だったらいいけどさ。そっからさらにさかのぼったら、もう俺のことを知ってるヤツに会うなんて、二度とないのかもしれない」
そう言ってため息をついた俺を、母さんはそっと抱きしめた。
もう、だいぶ、こんなことしてもらったことなかった。
母さんの背を追い抜いたころから、もう、ずっとだったと思う。
抱きしめられたことがないんじゃなくて──
その腕を、振りほどいていたっけか。
子供扱いがうっとおしくて。
……なんで、俺は、それを──母さんのぬくもりを、自分から拒否しちまっていたんだろう。
「……そんなことないわ。大丈夫……、よっちゃんは、きっと、イノリアさんに呼ばれてるのよ。助けてあげて?」
背中を、昔寝る前にしてくれたように、とん……とん……と、かるく、叩いてくれながら。
俺は、どうして、今までこのぬくもりを、受け入れようとしてこなかったんだろう。
「女の子はね、いろいろ、複雑だから。女の子が意地を張っているなあって思ったら、もしかしたら面倒かもしれないけど、でも、じっくり、お話を聞いてあげて?」
俺は、どうして、このぬくもりが、いつでも、いつまでも、俺のそばにあると──帰ればそこにあると、思い込んでいたんだろう。
「女の子の悩みは分かりにくいと思うし、その場だけじゃ解決できないこともあるかもしれないけど、女の子って、意外にタフなのよ? 悩みさえ乗り越えたら、男の子よりずっと強いんだから。
──だから、お母さんのことは、気にしなくていいからね?」
だめだ……まぶたがおもい。
だめだ、いまねちゃだめだ……
こんどねたら、もう……、このぬくもりには…………
「かあさん……おれ、まだ……かあさんに、なにも……!!」
「いいの。よっちゃん、いいの。よっちゃんが、お父さんとお母さんのところに来てくれた。お母さんは、それだけで十分に幸せなの。
──よっちゃんはね、お父さんにそっくりなんだよ? よっちゃんの笑顔に支えられて、助けられて……。お母さん、よっちゃんから、たくさんの幸せをもらったんだよ」
そんなの──
そんなの、そんなちっぽけなもの──おれがかえしたいものじゃない……!
おれは……おれは……!!
「よっちゃん。お母さんね、そのちっぽけなもののために、今日までがんばってきたの。
今日までよっちゃんのこと、お父さんの分まで、がんばって愛してきたつもりです。だから今度は、よっちゃんが大事な人に、それを分けてあげてね?」
かあ、さん……
ずっとくろうしてきたかあさん……
おれのほほにこぼれてくる、あついしずくの、なんばいも、しあわせを、かえさなきゃいけないのに……!
「もう、時間かな……。
よっちゃん。いままでありがとう。
いってらっしゃい。イノリアさんに──未来のお嫁さんに、よろしくね?」
あとはもう、はっきりとは覚えていない。
ただ、頬にぼろぼろと零れ落ちてくる熱い雫とともに、母さんの沁み込んでくるような言葉を、夢見心地に聞いていた気がする。
「お母さんね、今まで生きてきた意味、やっと受け入れることができたの」
「この世界で一人ぼっちで生きてきた私を愛してくれた、あの人の赤ちゃんを産んだ意味は、あなたを今、送り出すためだったのね」
「倉木君にも、感謝しなきゃね? あの子はきっと、あなたのために、この世界が用意してくれた人なのね」
「最後に、よっちゃんの未来のお嫁さんを見せてくれて、ありがとね? 幸せにしてあげてね?」
「よっちゃん。多分もう、時間がないのね……。ごめんね、今まで知らないふりをしてて」
「……お母さんもね、この世界とは、ちが」
▼ ▽ ▼ ▽ ▼
ノートを閉じる。
今度は、メモじゃない。
覚えている限り、できるだけ克明に書き綴ったつもりだ。
俺を送り出してくれた人を、どんな言葉で送り出してくれたのかを、いつまでも、忘れないために。
――――――――――
一番身近にいる人を、私たちは忘れがちではないでしょうか。
失って初めて分かる価値、できれば私たちは、失う前に、その愛に報いることができたらと思いつつ、日常に埋没してしまい、「いつか」になってしまう──
「いつか」。
それは、未来が確実にあるという、根拠のないおごりなのかもしれません。
たった一言、ありがとうの一言を、「いま」、捧げられる自分でありたいと思っています。
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