第35話:ついに俺は、イノリアとの

「ショイシェ、ショイシェ! 目を覚まして!」


 イノリアだった。部屋の奥……というより、出入り口付近で、何かをゆすっている。

 ──女性だ、倒れている女性がいる。イノリアは、その女性を起こそうとしていた。


 俺もそちらに走る。「こ、これ、待つのだ!」とオルテンシーナが叫ぶが、「倒れてる人が先!」と返事をしておく。


「イノリア、大丈夫か……って!?」


 駆けつけて、足がすくんだ。

 イノリアと同じような衣装に身を包んだ女が、うつぶせに倒れていた。


 一見、傷などは無いように見えた。

 そして、丸い絨毯の上に倒れていると思った。


「……これ、ぜんぶ……血……!?」


 人間の血の量は、大人だと男は六リットル、女は四リットルくらいで、三分の一くらい出血すると危険だ、と聞いたことがある。半分なくなると死ぬとも。

 ──この床に広がる赤い液体は、一リットルやそこらには、……見えない。


 イノリアはそこに膝をついて、必死に女性に呼び掛けている。

 おそらく服のすそは血まみれで、もう、洗っても落ちないだろうに。


 ──ああ、もう、だめだ。

 ピクリとも動かないその女性は。

 ……たぶん、もう、死んでいる。


 ──死んでいる!?

 人が……!?


「もし──もし! お願いです、この子も治療していただけませんか!? 悪い子ではないんです! 最近好きな人ができたとかで浮ついていた点はありましたが、決して悪い子では……!」

 イノリアが俺にすがりつくように訴えてくるが、俺にだってどうすることもできない。


 ──まてよ、夢なんだ。

 夢なら、もしかして──?




 もしかしても何もなかった。

 体を起こしてみれば、うつぶせた面は、ねっとりとした血でぐっしょりと濡れていた。


 胸の真ん中にはブスリと刃物を刺した跡。

 そして、喉がパックリとえぐられていた。

 ……おそらく心臓を一突きしたあと、喉をえぐったんだろう。


 心臓が動いている状態で頸動脈を切ると、天井まで真っ赤に染まる血の噴水が起こるというから、心臓を破壊した後で、声を出させないために喉をえぐったのかもしれない。

 誰が? ──決まっている、さっきの黒ずくめの三人のうちの誰かだ。


 オルテンシーナとイノリアは、どうもこの女にここまで案内されたらしい。大切なお話があるからと。

 遅れてやってきたオルテンシーナも、この惨状に言葉を失った。


「……本当は我が呼ばれたのだが、たまたまそばにアイノライアーナがいたのでな。一緒に連れて来たのだが……」


 そこへ、ガチャガチャという音が、扉の向こうから聞こえてくる。

 

「姫様! ご無事ですか!」


 扉を蹴破る勢いで突入してきたのは、鎧を身に着けた男たちだった。いわゆる騎士というやつらだろう。


 いまさら来たのかよ、とは、あえて言わないでおく。

 これでとりあえずドリルとイノリアの安全は確保されたも同然だ。もしこの人たちが来る前に追撃のアサシンとかが送られてきてたら、奇襲というアドバンテージがない今、絶対に俺のほうがやられていた。


「おっさん、助かったよ! 姫様とイノリアはこっちでまあまあ無事。襲撃者はあそこに転がして……」


 そんなふうに、この世界で一番怪しいやつが話しかけてきたら、近衛騎士としてまず何をするか。

 少しでも考えれば分かるのに、その時の俺は安堵感のあまり、そんなことを一マイクログラムも考えつかなかった。


「怪しい奴め、おとなしくしろ!」


 掴みかかられ床に叩きつけられ、そのまま押さえつけられる。

 死んだ侍女を抱きかかえたままだった俺は、その血だまりに頬を叩きつけられるようにして、その場に拘束される。


「ちょっ……ちょっと待てよおい!」


 せっかく怖い思いしてガラスぶち破って一番乗りに突入して、でもって黒ずくめ三人もぶちのめして、それで俺が捕まる!? なんの冗談だよ!


「よい、放してやれ」

「王女殿下!? しかし……!!」


 おっさんたちは驚いて見せるが、その手はしっかりと俺を捕まえて放さない。


「この者は我の食客ぞ。その証拠に、見よ。暴漢どもを倒し、縛り上げたのは、その者の働きぞ。放してやれ」


 ……さっきまで俺にからかわれていた困ったちゃんにはとても見えない。背は高くないのに、その堂々とした姿はカッコいいと、素直に思った。


 だが。


「王女殿下、ご無事ですか!」

「ふむ……オウルァティーネ。無事だったようだね?」


 今の騎士たちに続いて突入してきた、見るからに身分の高そうな男たち。

 一人は、金髪碧眼の背の高い青年──何でもできる男ラインヴァルト

 そしてもう一人、グレーの髪を後ろに束ね、赤い軍装のラインヴァルトに対して深い青の軍装を身にまとった男。


「──少々、手違いがあるようだが?」


 グレーの髪の男が、何が面白いのか、くっくっと笑っている。


「ネズミが一匹、紛れ込んだようですね。想定外ですが、始末してしまえば結果は同じでしょう」


 ラインヴァルトが、俺を冷たい目で見下ろしながら言う。


 想定外……?

 ……始末!?


「いずれにせよ、王女殿下を害そうとした不埒者です。現場判断においての処分で問題ないでしょう」


 ぞっとする。

 これが、あの、ラインヴァルトか……!?

 そりゃ、イノリアをめぐってぶつかったときはイヤミったらしかったけど、それ以外ならもっと人間味があるヤツじゃなかったのか……!?

「おい! ラインヴァルト! 王女殿下を救った人間に向かって何言ってやがる! 冗談にしてもキツいぞ!」


 俺の言葉に、不愉快そうに眉を動かすラインヴァルト。


「なぜ私の名を知っている。

 さらに言うと、無様に這いつくばっている輩に、呼び捨てにされる覚えはない」

「じょ、冗談言うなよ! 俺だ、ヨシマサだ!」

「知らんな。ネズミに知り合いなどおらぬ」


 ──俺のことを知らない!?

 しまった、この時間軸のラインヴァルトは、俺のことを知らないのか!?


 グレーの髪の男が、肩を震わせるように笑いながら言った。


「さすがはラインヴァルト。君自身に身に覚えがなくとも、君を知っている人間は多い、ということだね?

 好意的な者も、恨みを持つ者も、ね?」

「兄上!」


 オルテンシーナが、グレーの髪の男の前にひざまずく。


「我の危急を救わんと駆け付けてくださったこと、感謝の念に堪えませぬ。

 ──ただ、そこな男は、我の危機に応じて参じた、我の食客しょっかくにございます。断じて害意ある者では」

「……食客?」


 グレーの髪の男が、意外そうに眼を見開く。


「君が食客を擁しているなど、初耳なのだが?」

「きょ……今日、たまたま、拾いまして……」

「ラインヴァルト、知っていたかい?」

「……いえ、伺っておりませぬ」

「ふむ」


 グレーの髪の男は、しゃがみ込むと、俺の顔をしげしげと眺める。


「……なんとも平凡な顔だな? ここまで黒い髪というのは、珍しいが」


 ……平凡で悪かったな!

 腹の中で毒づくが、目に表れてしまったらしい。


「ふうん……なかなか反抗的な目だ。この国の王太子に向かって、ね?」


 げげ! 王太子!

 ……しまった、そうか。オルテンシーナの兄ちゃんなら、当然そうだよな!?


「ネクトール様。このような得体のしれぬ輩、危険だと判断します。オルテンシーナ様はあのようにおっしゃっていますが、すみやかに処分するのが適当かと」

「うぉい! ラインヴァルト! その、虫けらを見るような目でとんでもないこと言うんじゃねえよ!」

「実に不快な男だな。そのように無様に転がりながら、なおもそのような口をたたくとは。おい、この男を──」


 万事休す!

 ラインヴァルトがこんな冷酷な男だったなんて!

 イノリア、優しい男って情報、大間違いだぞ!! もしくはその情報、女限定じゃないのか!?


 殺されてたまるかと体をよじるが、俺を取り押さえる男はびくともしない。ちくしょう!


「ええい、我の食客だと言うておろう! まずはその男を放すのだ!」


 オルテンシーナがぽこぽこと、俺を取り押さえている男をたたく。男は困惑しつつも、しかし手を緩めてくれない。ラインヴァルトも、知らん顔だ。


 ──俺、死ぬの!?

 ちょっと待て、こんなリアルに拘束される苦しさを味わっている夢で、この上さらに殺されるって、どんだけだよ!


「おい! 俺は王女殿下を救ったんだぞ! それでこの扱いかよ!」

「ふん……。それが狂言でない保証がどこにある」


 てめっ、ラインヴァルト! この陰険野郎!

 俺があらん限りの知識を以って罵倒しようとした、その時だった。


「その者は、私のことを助けてくださいました。ご自分がお怪我をなされても、なおも、の私を助けてくださったんです。まずはお話だけでも聞いていただけませんか!」


 凛とした声。

 ──ああ、この声は。


「……王女付きとはいえ、侍女の身でこの私に意見かい?」

「はい。私はこの方が悪人だとは思えません! どうかネクターバレン様の寛大な御心みこころを以って、まずはお話を聞いていただけたらと、切に願う次第です!」


 イノリア、だった。


 ──見ず知らず。

 彼女は確かに、そう言った。


 そうか。

 つまりこの時間軸は、俺と、イノリアとの、なんだ。


 ついに俺は、彼女との──イノリアとの、出逢いの瞬間にたどり着いたんだ。

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