第30話:俺は絶対に、忘れない

 ラインヴァルトの言葉に、イノリアは一層、不快そうに眉根を寄せる。


「だから、そういう言い方をやめていただけませんか? 私、世辞は好きではないのです」


 その言葉にも、ラインヴァルトはさわやかな笑顔を崩さない。


「だから君は魅力的なんだよ。たおやかにして簡単には手折られぬ凛としたその姿、私はそんな君にこそ、愛を捧げたいのさ」

「そう……。ですが私のような下級貴族の娘などよりも、その言葉、に掛けて差し上げたほうがよろしいのでは?」


 もう少しでイノリアの顎に指を掛けるところだったラインヴァルトの顔が歪み、目をそらせたのが分かった。


「……誤解だよ、いったいどこでそんなくだらない噂を──?」

「あら、本当だったのですか? なんでも口に出してみるものですわね」


 イノリアの口元が、挑戦的な微笑みを浮かべる。

 その言葉に、ラインヴァルトの顔が、一瞬だが、真顔になる。


「……かなわないね、イノリアには」


 ラインヴァルトは、困ったような笑みを浮かべつつ、やや間を置いたあと、続けた。


「だが、もう一度言わせていただくが、おそらくそれは誤解だよ。なんなら、に確かめたらどうだい? 私が君だけを愛していて、君一人に思いを寄せていることが分かると思うよ」


 自分の潔白を主張しつつ、イノリアへの愛を語る。


 だが、「かなわないね」、その言葉を言う直前の、ラインヴァルトの目。

 その瞬間のラインヴァルトの目を、俺は忘れないだろう。


 一瞬だった。

 一瞬だったけど、あいつは、恐ろしい目をしていた。


「……そう言っていただけるのは、とても嬉しいですわ、ウッズエーナ様。私のような位階のものにまでお声をかけてくださるその懐の広さには、感服いたしますもの。

 ──心が躍ります、一夜の契りを得る、端女はしためのように」

「イノリア……。君は、私が、そんな男だと言いたいのかい?」

「あくまで噂ですわ。見目麗しく、どなたにも憧れとなるような、そんな男性には必ず付いて回るような」

「噂、ね……」


 ラインヴァルトは、口の端をゆがめ、そして、俺の方を見た。


「噂、そう──噂、と」

「な、なんだよ?」


 思わず背筋が伸びる。


「……このような素性のしれぬ、王女殿下の道化と連れ立って市を歩くようなことこそ、イノリア。君の名誉を傷つけることになりはしないかな?」


 王女の、道化?

 ──俺のことを言っているのか?


「もちろん、君のことだ。確かに君は、些細な噂程度に屈することはないだろう。君の神経の太さは、私もたった今、舌を巻いているところだからね。宮廷貴族らしからぬ、ある意味、領主貴族の伴侶にふさわしい胆力だと私は思うよ」


 褒めてんのかけなしてんのか分からない言葉だ。

 だが、領主貴族の伴侶にふさわしいってことは、つまり上に立つ人間はある程度図太くないとやっていけない、そういう意味でイノリアは領主貴族の妻にふさわしい、って言ってるんだろうか。


「──けれど、私や君はともかく、このような男を供にして市を出歩く息女を持つ、そういった噂が立つことで、ご家族──とくに、君の姉君の嫁ぎ先での評判や、これから縁談を得るかもしれない妹君の評判に、少々、荷の重いことになりはしないかと思って──ね?」

「――──!!」


 こいつ……!

 俺をダシにして、イノリアを──!?


「おい、ラインヴァルト! その言い方は卑怯じゃねえか? イノリアの姉ちゃんや妹は関係ねえだろ!」


 俺の言葉に、ナイヤンディールが腰の剣に手を掛ける。


「無礼な──!」

「かまうな、ニアン」


 ラインヴァルトに止められて動きを止めるが、これが殺気っていうの? 今にも「お前をコロス!」と言わんばかりの目でにらまれる。こえぇ!


「着飾った野良犬が吠え付いたところで、本質はただの野良犬。こちらの剣が汚れるだけだ。ニアン、貴様の剣を汚す価値はない」


 そう、ナイヤンディールに声をかけたあと、俺に向き直る。


「──フン、王女殿下の腰巾着め。賓客扱いされているからといえど、最低限のマナーも守れないとは。せめて『きょう』を付けてもらいたいものだな」

「ああそうかい、……ええと、。あんた、本当にイノリアを愛してるのか? もしそうなら、そんな脅しをかけるようなことしねえで、堂々と口説いたらどうなんだよ。俺がいると家族の評判が悪くなるって、すげえ陰険野郎に聞こえるぜ」


 ピクリと眉が動く。

 この金持ちで武力もある金髪碧眼のイケメンに、口先ででも一矢報いたと考えれば、なかなか胸のすく思いだ。


「──なるほど。

 正しく、蚊を叩き潰す寸前の感情に似ているな、今の君を見る思いは──」


 一瞬だった。

 俺の喉元に、剣が突き付けられるのを、見て、分かって、気づいて。


「野良犬とて、吠えるときには己の牙に自信を持っているものだ。実力のない威嚇は、命を無駄にすると、知るべきだよ? ヨシマサ」


 動けなかった。

 下手に動いたら、その剣の切っ先が、そのまま喉にするっと入ってきそうで。


「やめて、ラインヴァルト! 剣を引いて!」

「イノリア。君のその気高さを、私は愛しているよ?

 だが、まことに遺憾ながら、私もどうしても子供っぽいところがあってね。今のように、ついうっかり、むきになってしまうことがある。お恥ずかしい限りだ」


 実にさわやかな笑顔で、ラインヴァルトはイノリアに言う。

 俺の喉元に、剣の切っ先を突き付けたままで。

 ──俺が後ずさると、正確にその分をさらに突き付けて。


「先程、妹君の話をしたが、私ならば、君はもちろん、君の妹君の結婚にも、最大限の力になってやれるだろう。

 君は位階の話をするが、私は、君のその気高い魂を買っているんだよ。分かってくれると、嬉しいね?」


 さらに剣が突き付けられ、喉元──詰襟をとんと、突く。

 恐怖のあまり、動けないでいる自分が情けない。


「ラインヴァルト、もうやめて! あなたらしくないわ、どうして急に、そんな……!」

「私らしくない? 心外な言葉だね。君がどれほど、私のことを知っているというのかな?」

「ええ、知っているわ! ウッズエーナ子爵! あなたを目で追わずにはいられない宮廷貴族の子女は数知れず、柔よく剛を制す、一流の騎士! すでに多くの歌に謳われる、我が国の名誉の体現、それがあなたでしょう!」


 イノリアの言葉を、だが、ラインヴァルトは鼻で笑った。


「イノリア……君は、分かっていてそれを言うのかい? そんなものは──」


 言いかけて、しかし首を振る。


「──まあいい。ここは剣を引かせてもらうよ。

 だが、次に会うときには、ぜひ色よい返事がいただけることを期待している。アイノライアーナ嬢」


 ラインヴァルトは、もう一押し、剣をわずかに喉元に食い込ませたあと、素早く鞘におさめた。


「ニアン。この市は少々、掃除が必要だな?」


 そう言って、踵を返す。


 ナイヤンディールは、じっと黙っていたリボタックさんを見下ろすと、剣を抜き放った。


「──紛い物を商うと、街の品格に関わる。これに懲りたら、二度とここで店を開かぬことだ」


 真っ二つに叩き割られた指輪の箱から、指輪が澄んだ音を立てて、地面にまき散らされた。




「あんちゃん、なんだ、腰が抜けたのか?」


 リボタックさんが手を伸ばしてくる。

 ありがたく手を伸ばすと、引っ張り起こされた。


「おっかねえなあ。しばらくほとぼりが冷めるまで、ここで商売はできねえかな?」


 大切な商品を傷つけられたというのに。

 それなのに、リボタックさんは明るく言った。


「大切な商品? まあ、お貴族様にとっちゃ、俺の扱う品は、まだまだ二流以下ってことなんだろう。悔しいが、十分に金と手間をかけた一品物には、敵わねえからな」


 からからと笑う。


「……ごめんなさい、いやなことに巻き込んでしまって」


 イノリアが頭を下げると、リボタックさんは慌てて両腕を振った。


「いやいや! お嬢さんが頭を下げることじゃねえだろう! 今だって商品を拾い集めてもらったし、さっきだってウチの商品を買ってもらったばかりだ。こりゃアレだ、運が悪かっただけよ!」


 本当は、はらわたが煮えくり返る思いだろうに。リボタックさんは、困ったような笑顔で、何度も「運が悪かっただけだから」を繰り返した。


「それにしても兄ちゃん。よくもまあ、お貴族様に逆らったな? 上手い生き方だとは言えねえが、正直、スカッとしたぜ!」




 頬に、軽い痛みが走る。


「……どうして、あんなことを言ったの?」


 路地裏に引っ張り込まれたと思ったら、平手打ちのあとの、胸で泣くイノリア。


「あなた、殺されてもおかしくなかったわ……? もしラインヴァルトが手袋を投げつけていたら、正式な決闘の末に、殺されていたかもしれないのよ……?」


 イノリアの、碧がかった青い瞳から、大粒の涙がこぼれ続ける。


「あなたは、どうしていつもそうなの? みていて本当にあぶなっかしくて……!」


 そう言って、再び、俺の胸に顔をうずめる。

 肩を震わせて泣く彼女を、俺は、どうしていいか分からず、でも、泣かせたのは多分俺のせいで。

 だから、俺はせめて、これ以上、泣かせたくなくて。


 ぴくりと肩が震えた。

 イノリアが、顔をこちらに向ける。


「ヨシ……くん?」


 そっと肩に回した腕に、イノリアが手を伸ばす。

 その薬指の根元に光る、蛍石の指輪。


「……ごめんな。不安にさせて」


 大きく目を見開いたイノリア。小さく、首を振る。


「ごめん、なさい……。私のために、ヨシくん、怒ってくれたのに……」


 ふたたび大粒の涙をたたえる瞳に、俺は、吸い込まれるように。




 柔らかな唇の感触を、

 ほのかな塩味にまみれた屈辱の味を、

 彼女の背負う悲しみを、


 俺は絶対に、忘れない。

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