第22話:「たかが夢」で片づけるには
オルテンシーナ──ルティについてもそうだ。
最初の夢であんな死に方をするものだから、金髪ドリルの高慢・高飛車なクソ女かと思ってたら、あんなに可愛い性格の子だったなんて。
あんなになついてきた彼女が、俺を、皮膚が裂け肉が飛び散る鞭打ち刑にする。
あんなになついてきた彼女は、俺が守れず、腹が裂け臓物はみ出る死体になる。
俺がイノリアをかばったことについては、今ならわかる。その刑を受けている場面の俺が、俺自身と言えるのかどうかは分からないが、少なくともイノリアを愛し、信じていたんだろう。
そしてそのイノリアを庇う俺に何度も忠告をしたというルティは、──つまり、刑を執行はしても、俺への愛着を捨てきれなかったんだろう。
ルティがどんな思いで忠告を繰り返したのか。
端から見たら、イノリアを売れ、と言っているように見えたかもしれない。
だが、あの生け垣の中で触れた彼女は、そんな人間には見えなかった。
ただ単純に、それ以上、俺を傷つけたくなかったんじゃないだろうか。……俺の願望でしかないんだけど。
──じゃあ、最初から鞭打ち刑になんてしなけりゃとも思ってしまうんだけど、多分、何らかの理由で状況証拠がそろってしまって、罰せざるを得なくなってしまったのだろう。
彼女は仮面、と言っていた。
望む望まないにかかわらず、彼女は王族として生きる義務を背負い、そしてそこから逃げることなく生きてきたのだろう。
──だから、俺と二人きりになったとき、その仮面を外して、ああも弾けたのかもしれない。
俺が、異邦人だから。
彼女に、王族としての姿を望むようなことを、していなかったから。
……だが、この先会うことになるルティは、『ルティ』じゃない。あくまでも俺を食客に抱える主君たる「オルテンシーナ」でしかない。今日打ち解けた、あの可愛らしいルティとは、もう、会えないのだ。
どれだけ「ただの夢」で、「覚めてしまえば
たかが夢なんだから、一観客として楽しむだけ──そういうことも、できるはずなのだ。
だけど、あの夢はもう、「たかが夢」の一言で片づけるには、あまりにも重くなり過ぎていた。
『お前、夢に、引っ張られてねえ?』
以前、倉木が俺に言った言葉。
あの時はホラー的な意味で受け止めてしまったが、こうして現実の俺がいま、夢の重さに押しつぶされそうになっていることを考えると、間違った表現ではないことに気づく。
夢日記で鬱になる、発狂するというのは、もう、俺にとって他人ごとではなくなりつつある。すでに、たかが夢だと笑い飛ばせなくなっているのだ。
ペットボトルを夢に持ち込み、実際に夢の中でルティと分け合って飲んだ、あの体験。
狭い生け垣の空間の中で、重ねた唇の、舌の感触は、額に押し当てられた柔らかな感触は、今も
王族のくせにくるくるとよく変わる可愛らしい表情が、男っぽくて昔っぽいしゃべり方ながら可愛らしい声が、瞼の奥に、耳の奥に、今も鮮明に再現できる。
──あれは、本当に、夢だったのか。
古典の担当の
今こうしているのが現実なのかどうか──この現実だと思っているのが夢で夢だと思っていた世界が現実なのか、ってやつ。
それくらい、今回の夢は、いろんなところがリアルに感じられた。
俺が、明晰夢に慣れてきてるってことなのか?
「母さんは、父さんのどんなところが好きだったんだ?」
俺の言葉に、母はきょとんとして、そして、笑った。
「なあに? 自分に彼女さんができたら、母さんのことも気になるようになったの?」
「ちげーよ。ただ、俺の父さん、考えてみたらどんな人だったのか、あまり聞いてなかった気がしたからさ──」
俺が生まれる前に死んでしまったという親父の遺影は、俺と同じくらい若く見える。
そりゃそうだ、あと五年したら、親父と同じ年になるのだから。
「そうねえ……。優しいところ、かな。優しくてね、いつも、お母さんのことを優先してくれる人」
母さんはいつも、親父を過去形で語らない。
いつも、現在形で語る。
優しい人。
いつも母は、親父をそう表現してきた。
母は多く語らないが、若いころから結構苦労してきたらしい。「ご飯食べるのも、大変だったわぁ」とは、母の言葉だ。
そんな母を励まし、嬉しい時には一緒に喜び、辛いときには一緒に泣いてくれた、それが、俺の親父らしい。
結婚の際には母の親のほうが猛反対したそうだが、結局諦めようとしたところに手を差し伸べて、駆け落ち同然に結婚したそうだ。
式も挙げることができず、指輪も安物、婚姻届だけが、二人をつなぐ証だという。その婚姻届のコピーは、なんとラミネートをかけたうえで額縁に入れて飾ってあるというところが、なんとも母らしい。
「だって、あの人の証だもの。あなたもお父さんみたいに優しい人に育ってくれて、お母さん幸せ」
「……優しくねえよ」
「優しい人よ、よっちゃんは」
俺が飯を食う様子を、にこにこしながら見守る。
「……親父が優しい人は分かってるよ。それ、いつも言ってる事じゃん。ほかにないの?」
「ほかに……?」
「そ。……ええと、惚れたエピソード、みたいな──」
「なあに、そんなに彼女さんとのお付き合いの参考にしたいの?」
ころころと笑う母の言葉に、イノリアの顔が浮かぶ。
ドレスを褒めたときの、あの、両手を頬に当て、顔を真っ赤にしてうつむく、恥じらいながら喜んでいた、あの顔。
「だ、だからそうじゃなくて──」
「そうね……いま、彼女さん、傷ついてるんだったもんね……。
でも、そんな今こそ、よっちゃんの優しさで包んであげてほしいかな。お母さんも、そうだったから」
母にあんな歴史があるなんて知らなかった。
母が俺のカノジョだと勘違いした──夢の中では母の勘違い通りの立場だったことがややこしい──女性が、『女の子として辛い仕打ち』を受けた、そのせいで入院をしていると母は思い込んだためだろう。母は、自分の体験してきたことを話してくれた。
そりゃもうすさまじいのろけ具合で、聞いている俺が何度挫折しそうになったか。
ただ、そののろけの裏には常に、母の辛かっただろう思い出があった。
今の基準なら児童虐待レベルの厳しいしつけに、母はもがき、親──つまり俺が会ったことも見たこともない祖父母──の期待に応えようとして、しかし褒められることなくできて当たり前だったという。
いつもリストバンドをしていた母が見せてくれた、リスカ跡。
そうした傷跡を両親は咎め、親からもらった体を傷つけた、汚い娘だと罵ったそうだ。
そして、己の存在価値を誰かに認められたくてただ一度きりした、エンコー。
「体はね、簡単につながるの。心よりも、ずっと簡単に。お金なんていらなかったけど、でも自分の価値を、お金が証明してくれた気がした。一度きりだったけど、お母さん、それをすごくかみしめた。
でもね、それを、真剣に怒ってくれたのも、お父さんだけだったのよ?」
エンコーの時は、ただ気持ち悪いと思った唇の感触が、こんなにもドキドキして素敵なものだったんだと、父と唇を重ねたときの甘やかな気持ちを、母は十分間くらい力説していた。
──わかる。ルティの唇の感触は、未だに唇に残っている気がする。
父と出会ったのは中学の時だったそうだから、結婚生活自体は短くても、付き合い自体はそれなりに長かったようだ。
辛いときほど、母の傍にいた親父。
何度も母は、親父に八つ当たりしたそうだ。
怒って、すねて、泣きわめいて。
自分のような汚れた女よりいい女性がいるだろうと、なぜ自分のような女のそばにいるのだと泣き叫び、別れてほしいと訴えたことも、何度かあったのだという。
正直、息子の俺が聞いていても、引いた。相当に面倒くさい女だったんだろうなと思う。
ただ、あの頃の母は、自分以外の全てが輝いていて、自分だけが暗闇でもがいているように感じていたんだそうだ。
親父であっても例外でなく、なぜ自分のような存在に、親父が寄り添ってくれているのか、本気で悩み、苦しみ、親父を遠ざけようとしたことも、指の数では数えきれないほどだったという。
「自分を本当に愛してくれるかどうか、ずっと愛し続けてくれるのか、それを確かめたかったのね、きっと」
母はそう言って笑った。
自分を傷つけ、相手を傷つけ、それでもそばにいてくれることを確かめ──
当時の友達はその過程で離れていき、やはり自分のそばにいてくれる人などいないのだと、母は自分を納得させたのだという。
「今振り返れば、自分を傷つけてそれをアピールして。それで相手も傷つけて、それでもそばにいてくれるか──。
そんなことを試していたら、友達がいなくなるなんて、当たり前なのにね」
だから、その頃から今でも付き合いのある友達、というのは、ほとんどいないそうだ。
親父と結婚し、親父と愛を確かめ合って(すげえ恥ずかしい言い方だ、「愛を確かめ合う」って!)、しばらくはそれでも不安定だったそうだが、そのうち「愛されている」という自覚がやっと芽生えたころに俺を妊娠したらしい。
最初は、今までさんざん迷惑をかけてきた自分に、子供を育てることができるのか不安で、悩んで、
「ひっぱたかれちゃった。それで、泣かれて。お前だけに背負わせるわけないだろって。二人で、育てていくんだって」
その晩はいつも以上にすごかったのよ? などと、両親の性生活を赤裸々に、それも本人の口から暴露されるのは、ほんとうに、……聞かされる側は身の置き所がありません。カーチャンやめてくれ、いやマジで。
それからは、今度は自分がもらった愛を、俺に返すという形でがんばろう、と考えたんだそうだ。
「結局、一人でよっちゃんを背負うことになっちゃったけどね」
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