第21話:俺はこの先、どんな顔をして会えば

「ふふ……先の一回は事故だとしても、今度こそ、イノリア嬢には言えぬな?」


 目を合わせず、うつむきながら、それでもすごく、嬉しそうに、彼女が言う。


 唇に、まだ感触が残っている感じがした。

 初めて経験した、あの感触。


 みずみずしい、ぷっくりとした唇が触れた、あの感触。

 そっと俺の唇を這うようにした、彼女の舌の感触。


 ──どきどきが止まらない。

 やかましく鳴り続ける心臓の音、頸動脈を打つ振動が、彼女に聞こえていないだろうか。

 さっきまで面倒くさいと思っていたやり取り、ぞんざいに対応していた俺の言動一つ一つを後悔する。

 こんなに可愛い子に、俺は。


「俺は、イノリアとは……」


 口にしかけて、口ごもる。

 何を言えばいいのか、見当たらなくて。

 イノリアとのことなど知らないと言えば、きっと、ルティは傷つくのだ。

 彼女は、俺とイノリアがカレカノの仲で、それを祝福する前提で、それでもいま、俺とキスをしたはずなんだ。


 カノジョ付きの男を応援しながらキスする神経もよく分からないが、それでも、俺がイノリアを知らないと言ったら、彼女は、きっと悲しむんじゃないだろうか。


「我は、王族ぞ。己の身に、嫁ぐ相手を好き嫌いで選ぶ余地など無いことは、重々承知よ。

 ──ゆえに、そなたらの恋路を邪魔するつもりなどありはせぬ。生まれも身分も立場も、なにもかも互いにふさわしくないそなた達が育む恋を、我は見守りたいのだ。

 せめて、我の成し遂げられぬことを成し遂げる、その姿を見せておくれ」


 ……そうか。

 俺は──俺とイノリアは、彼女の、身代わりなんだ。

 自分にはできない、恋の体験の、実践者として。

 あんなに「可愛い」と言ってくれと駄々をこねながら、それでも俺とイノリアの関係を推していたのは、そういうことだったのか。


 そうなると、余計に気になってくる設定がある。

 俺とイノリアの関係だ。

 現時点の夢では、俺はイノリアと、少なくともキスするくらいの仲で、今いるこの場所でこっそりデートしてた、という設定らしい。

 ──俺と、イノリアが。


「あのさ、ルティ。俺とイノリアとの関係のことなんだけどさ──」


 言いかけた俺に、ルティが呆れたように言葉をかぶせる。


「今さら何を。そなたとイノリア嬢が恋人同士で愛し合っておるのは、少しでも事情に明るい者ならばよく知っておる。我すらも知っておるくらいなのだぞ?」


 ──やっぱり、そうなるのか?


「えっと、つまり俺は、イノリアの恋人ってことになってて、それを知ってる人が、何人もいるってこと?」


 戸惑いながら、自分に言い聞かせる意味もあって口にした俺に、彼女は不機嫌になった。


「マサよ、いくら我と二人きりだとて、そこをごまかすでない。そなたがそんなでは、イノリア嬢の立つ瀬がないではないか。我が侍女を貶めるつもりか」

「あ、いや、そういう意味で言ったんじゃ──」

「どう聞いてもそういう意味にとれるわ、愚か者め。

 ──我は認めておるのだ、そなたと、我が侍女の仲を。結婚する時期が決まったら我に相談せよ、そなたら二人の直属の主として、我の名に恥じぬ支援をしてやる」


 マジか。

 マジなのか。


「それから、よく二人きりで密会を重ねておることについてだが、これからはもっと堂々とすればよい。

 特に経歴の特殊なそなたと、宮廷貴族の末席に身を置くイノリア嬢では、あまりに釣り合わぬのだ。その二人が密会となると、あらぬ噂を生みかねぬ。

 ゆえにいっそ、公の仲にしてしまうのだ。そのほうが虫よけにもなろう。我もイノリア嬢にはそう言っておいたぞ?」


 俺とイノリアが、オルテンシーナから見ても、結婚を前提にした交際をしていたということが分かった。

 もちろん、単に彼女が勘違いしているだけ、ということも十分考えられる。

 だが、少なくとも俺はイノリアと、この場所で密会を重ねるような、そういう仲だったのは確実なようだ。

 ──俺と、イノリアが。


「……釣り合わない、とは?」

「何を言うておる。そなたは我の食客ぞ。いわば国賓にして、我の直属の騎士なのだ。宮廷貴族とはいえ、末端のイノリアでは、格が釣り合わぬわ。せめて彼女の位階がもう少し高ければよかったものを」

「え、そっち?」

「なんだと思ったのだ。まさか、我の直属の騎士が、最低位階の宮廷貴族の娘にも劣る位階だと思っていたのではあるまいな?」

「──思ってた」


 正直に言う。

 彼女には正直が一番だ。


 果たして、彼女は、頬を膨らませ、そして、


「そなたは我の直属ぞ? 宮廷において、我の傍らに立てる騎士が、何人いると思うておる」


 今度は額に、柔らかな感触を、いただいてしまったのだった。




 気が付いたら、ソファーの上だった。

 毛布が掛けられている。

 俺が自分でそんなことをするわけがないから、母さんが掛けてくれたんだろう。

 手にはペットボトル──「お~いレモンCC」のそれが握られていた。


 中身は、ない。


 おそらく、飲みほしたそのままに、眠ってしまったのだろう。

 時計を見ると、五時過ぎだった。

 結局、俺は一晩で二回、夢を見たということになる。

 ひどくだるい。

 寝すぎるとかえって疲れると聞いたことがあるが、まさにそれなのだろう。


 長い、長い夢だった。

 そして、あまりにも現実感がありすぎる夢だった。




 ノートに記録をつけながら、俺は果てしなく、自分の選択を後悔していた。


 イノリアの危険を回避するためには、なんらかの手立てが必要だったのは間違いない。

 だが、あの、別れ際の悲痛な叫び、流した涙。

 その意味を考えたとき、俺の選んだ方法が最適だったのかとなると、分からなくなってしまうのだ。


 ──俺と彼女が、恋人同士だった?


 俺は自分の救いようのない勘違いに絶望する。

 俺と、イノリアの関係が、ルティの――オルテンシーナの言葉通りの関係だったのだとしたら。


 ──じゃあ、俺の、したことは。

 それを思うたびに、俺は目を覆い、ただただ、自分の選択を呪う。


 イノリアは、『逢うのをやめよう』と言っていた。

 俺はそれを、もう逢うのをやめる、すなわち関係を断つという意味だと受け止めていた。


 周りの誤解を生む、という彼女の言葉も、俺のほうが身分が低すぎて、彼女にとって嫌な噂が広まるのを避けるためだと思い込んでいたが、実際は反対だった。

 彼女の身分が低すぎて、俺と釣り合わないのに交際していることに、とやかく言う輩がいること、だから、密会ではなく、堂々と交際し、公の相手として広く認知させてしまえという、オルテンシーナの助言に従ったものだったんだ。


『ち、……ちが……、わ、わたし、そんな……そんな意味じゃ……』


 ──あのときの、あの悲痛な表情。

 彼女は、二人の仲を公のものにして、、俺と──そう言いたかったのだ。

 それなのに、俺は。


『待って……まってヨシくん! どうして! ねえ、どうして!!』


 ラインヴァルトに彼女を任せると言い、最敬礼をし、握手まで交わした俺。

 イノリアからすれば、自分の恋人が、一向に話を聞こうともせず、自分を、ほかの男に売り渡したように見えただろう。


 最低だ……最低すぎる。

 知らなかったとはいえ、やったこと自体は鬼畜過ぎる。

 読み直すたびに、自分のやらかしたことが本当に胸に突き刺さってくる。


 あの時はまだ、イノリアが俺の恋人だという認識がなかったから、一つの物語の登場人物たちの動き、としか思ってていなかった。

 それが今、俺とイノリアは恋人同士だった、という情報が一つ与えられただけで、胸かきむしりたくなるほどに後悔が湧き上がってくる。

 人間って、本当に身勝手だ。


 胸が痛い。

 胸が痛い。

 ああ、胸が痛い。


 あの、庭園から逃げたとき、最後に見た、後ろから抱きかかるようにイノリアに頬を寄せるラインヴァルトと、顔を横に向け、その口づけに応えるイノリア。

 そこから目を背けるようにしていた、ナイヤンディール。


 あの泣き叫んでいた彼女が、俺以外の男とキスをしていた、あの姿。


 イノリアはあの時、何を思っていたんだろう。

 俺に捨てられたことを恨んだのか。自棄になったのか。諦めたのか。


 しかしこれから見る夢は、おそらく、俺とイノリアとが恋人ときの甘い情景かもしれないのだ。

 ……だめだ。

 一体俺はこの先、どんな顔をしてイノリアと会えばいいんだ。


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