第12話:なぜこんな救いのない夢を

 家に着くと、母は休日出勤だったらしく、テーブルに食パンと、それから調理済みのチャーハンが置かれていた。パンは朝食分、チャーハンは昼食分ということらしかった。


 荒い呼吸を整えつつ、とりあえず食パンをそのまま三枚、何もつけずに牛乳で流し込むと、シャワーを浴びるためにバスルームに行く。

 昨夜の風呂のまま、湯は落とされていなかった。ぬるくはあったが、冷たいわけじゃない。湯船につかる。


 朝っぱらから全力で走ってしまった。

 陸上で鍛えたはずの足は、もうすっかりなまっていた。

 すっかり息が上がってしまっている自分が情けない。


 インターハイは三千メートル障害物SC県予選敗退。ハードルで転倒したのが痛かった。まあ、それでも、走っている間は何も考えずに、ただただ自己ベスト更新のためだけ──走ること、乗り越えること以外に何も考えなくてもいいあの瞬間は、好きだった。

 あの夏からもう、すっかり走ることから遠ざかっていた。


 今朝、走ってみて、やっぱり走るのはいいと実感できた。それだけに集中するというのは、気分のリフレッシュができる。

 しばらく夢のことは忘れるように努力して、何かあったら走って気分を切り替える方がよさそうだ。




 ──荒い息を整える間もなく。

 俺は、ドアを蹴破る。

 ボロいドアは、鍵のほうではなく、蝶番ちょうつがいの金具のほうがはじけ飛んで、ドアは中に倒れた。


「イノリアッ!!」

 小屋の中に倒れてゆくドアを足蹴にしたまま一気に踏み込む。


 ムッとするにおいが鼻を突く。


 不快なにおいだ。

 そして俺は、自分でも極めて残念ながら、このにおいを、知っていた。

 鎧戸は締め切られ、換気も十分でない室内に充満する、

 つんとした青臭い、栗の花のようなにおい。

 海産物の干物のような、塩気のあるにおい。

 そして、……排泄物のにおい。


 もう日も落ちて、薄暗い小屋の中、

 一つの小さなランプの明かりに照らし出された、


 絡み合う、肉の塊。


 否、

 ぼろぼろの青い布の上で、

 一つの、ひときわ白い肉に絡みつく、

 おぞましい、複数の肉塊。




 彼女が、ここにいるのは、分かっていた。

 分かっていたから、飛び込んだ。


 だが、俺は、本当に、




「ヨシ……くん……?」




 あっけにとられてこちらを見る男たち。彼女に群がる三、四人と、それを囲んでくつろぐようにしていた、五、六人。

 そのなかで、男たちに囲まれ、挟まれるようにしている彼女の、かすかな声が、届く。




「……みな、い、で……」




 全身の血が沸騰するような、そんな、爆発した感情に突き動かされて。

 彼女にのしかかる男に向けて、俺は。


 突入前に握りしめた石は、たしかに力には、なってくれた。

 恐怖も何もなかった。

 怒り。

 ただ怒りに任せて、俺は石を握った拳を振り回した。


 だが、ケンカの経験など無いただの高校生が、一人で、手持ち無沙汰の大人の男たちだけでも五人以上いた中で、何ができたというのだろう。


「──びびらせんじゃねえよ。

 おい、殺すなよ? 痛めつけたうえで、どこの手の者か確かめろ」

「目撃者が一人でもいたら俺たち皆殺しだって話、あのいけ好かねえ黒髪野郎が言ってただろ。他に知る奴がいねえか、確かめろ」


 背後から殴り倒された俺はそのまま転倒し、うつぶせのまま、散々に殴られ、蹴られた。

 彼女の悲鳴はより一層悲痛さを増し、ゲラゲラと笑う男たちの動きはより一層加速する。

 泣き叫ぶ彼女をあざ笑い、俺に見せつけるように蹂躙し、嬌声を上げさせる男たち。

 そして俺は自分がまき散らした嘔吐物にまみれ、もう少しで意識を手放すところだった。




「──ああ、よくやったよ。君は、上出来だった。……舞台装置として、ね」




 我に返った時、先のあの匂いに加えて猛烈な生臭さ──血の匂いに、ふたたび嘔吐する。

 だがほとんど出るものなど無く、わずかに胃液が喉を焼くばかりだった。

 顔を起こすと、ちょうど、黒髪ストレートロングのあの冷たい目のイケメンが、死体からはぎとった服を使って、剣の血糊を拭きとっているところだった。


 死体ばかりだった。


「──イノリア! イノリアは!?」


 周りを見回して、そして、見つけた。

 俺が蹴倒したドアの、その四角い穴から見える外に、馬に乗った金髪碧眼の男の腕に抱かれて、マントの中で小さくなっている、彼女を。


 ──ああ、彼女は。

 助けられたのだ。ラインヴァルトたちによって。


 ……だが、あれを、助かったと言って、いいのだろうか。


 彼女が、男たちに組み敷かれていた場所には、くしゃくしゃになった青と白の布が、ひどくぬめったシミをつけたまま、放置されている。

 ……ここで、彼女が受けた、この、酸鼻を極める過酷な体験をもって、──助かった、と?




「ヨシマサ殿。このような汚らわしい場所、今すぐ焼却処分にします。すぐに出ていただきたい」


「──ま、まてよ! こいつらを裁判に──」


 言いかけて、そして、ゾッとする。


 そうだ。

 こいつら、全員、もう、

 証言できないのだ。


「……一人くらいは、生かしておくべき、だったんじゃないのか……?」

「暴漢どもは、イノリア嬢だけでなく、あなたをも人質に取っていたのですよ? 死にたかったのですか?」


 例の冷たい目で、へたり込んでいる俺を見下ろすナイヤンディール。


「……そ、そうか、そうだよな……」


 間抜けにも、俺一人で突出したために、俺は袋叩きに遭い、暴漢の一人でも生け捕りにできたかもしれないチャンスを潰してしまった、ということなんだろう。


「助けてもらっただけでも、感謝しないとな……」

「違います。助けたわけではありません」


 ぴしゃりと言われてへこむ。

 そりゃそうだ。彼らの目的はイノリアの救助だ。俺を助けたのは、たまたまに過ぎない。


「い、いや、イノリアだ。イノリアを助けてもらっただけでも……」

「違うといったはずですが?」


 ──え?


「……私とて、このようなことは、不本意なのです」


 ナイヤンディールは、

 確かに、いま……違うと言った。


 ──どういう、意味だ?


 少し考えて、納得した。

 彼はラインヴァルトの従者、つまり護衛だ。こんな任務は、不本意なんだろう。


「さあ、さっさと立ってください。どうせ打撲程度、致命傷になるような傷など負っていないのでしょう?」


 そう言うと、俺の腕を引っ張る。


「……これしきの事で立てなくなったのですか?

 まったく、世話の焼ける──」


 口では毒づきながらも、肩を貸してくれたナイヤンディールに、「ニアン……ありがとう」と礼を言う。


 ナイヤンディールは驚いたように俺を見て、そして、その切れ長の、冷たさを感じる目に似合わない苦笑いして見せた。


「さあ、行きますよ。こんな病気持ちの輩の死体などと、ひと時だっていたくありませんからね……!」


 病気……?


 なんとか、精いっぱい、背後を見る。


 ランプに照らされたヤツらは、

 あるものは潰瘍を患い、

 あるものは醜く変形した皮膚、顔をさらし、

 そしてあるものは、ちいさなバラのような湿疹を全身にまとって、

 それぞれ、死んでいた。




 小屋は、勢いよく燃えていた。

 俺たちが小屋を出たときには、すでに出発した後だったのか、ラインヴァルトの姿はなかった。もちろん、イノリアも。


「……ニアン──ナイヤンディール。……その、ごめん」


 燃え盛る小屋を見つめていたナイヤンディールが振り返る。


「……せっかくの犯人を捕まえるチャンスを、俺が無茶して飛び込んだから……」


 ナイヤンディールの顔が、歪む。

 怒っているようにも、悩んでいるようにも見える顔。


「……いえ。生かしておくつもりなど、もとよりありませんでしたから」

「そ、……そっか。女の子に、あんなひどいことする奴ら、裁判以前の問題……」


 あの皆殺しが、つまり、彼らへの判決だったのだ。


「でも、ほんとに、イノリアを助けてくれて、ありがとう。俺、彼女のこと、すごく気になってたから……」


 俺は、心の底から感謝を述べたつもりだった。

 なのに、ナイヤンディールの顔が、さらに顔がゆがむ。

 なんだろう。なぜそんな苦しそうな顔をするんだ。


「ヨシマサ……」


 ぎりっ

 歯ぎしりの音が聞こえた。


「謝らないでください。……感謝など、しないでください。私は──」


 炎に照らされる、そのうつむいた男は。


には、そんな資格など……」




 気が付いたら、すっかり湯の冷めきった湯船の中だった。

 下手したらそのまま溺れていたかもしれないわけで、本当に危なかった。


 それはともかく、飛び起きた俺は、着替えもそこそこに、スマホにかじりついた。

 検索項目──「性病」を、画像検索。


 やっぱり見たことがあると思った。

 特徴的な、赤い湿疹のようなもの──バラしん

 今日の夢の中に出てきた、変形した皮膚──ゴムしゅ


「──梅毒ばいどく


 初めて気が付いた時、顔を含めて手、腕、首筋、顔──おそらく全身を覆っていた、あのバラ疹。

 徐々に減っていったあのバラ疹。


 そして、俺が根本的な勘違いをしていたことに気が付いた。

 それゆえに、あの四角な中庭で、彼女が、俺の言葉に、なぜ悲嘆にくれたのかを理解した。


 ──彼女の病気は、だんだん治っているのではない。

 だんだん、症状が広がっているのを、逆再生しているようなものだったのだ。


 つまり、俺は、徐々に、時間をさかのぼるように、夢を見ているのだ。


「じゃあ、次に見る夢で、あらかじめ彼女が助かるようにすれば──!」


 我ながらナイスアイデアと思ったのだが、しかし、もし、この先、夢を見続けることがあるとしても、先に見た夢はすでに起こってしまったことで。


 この先、もし、何らかの手段でもって、彼女があの小屋に捕らわれないように努力したとしても、結局、それ込みで、彼女に降りかかる悲劇は、回避できないのだろう。


 この不思議な夢は、俺がいくら展開を変えようと思っても、すでに起こってしまったことなのだから、変えようがないのだ。


「──じゃあ、未来の夢を予想して、ハッピーエンドになるように仕向ければ──?」


 ──何を言っているのだろう。エンディングは、もう、すでに決まっているというのに。

 俺がなぜか化け物となり、姫様は、おそらくさっきのイノリアのように乱暴されたうえに投石機の石で潰されて死に、イノリアは俺の手の中で、やはり投石機の犠牲になる。


 俺は、何のために、こんな夢を見続けているのだろう。


 なぜこんな救いのない夢を。


 ──俺には、こんな、破滅願望があったというのか。


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