はじまり①
「
「はーい、すみませーん」
隣の席のリコが、シスターに怒られている。ここはキリスト教系の女子大だ。私も含め、学生のほとんどはキリスト教徒ではないが、宗教学は必修科目なので週に1度シスターの講義を受ける。そんな宗教学の講義中に、机の上に開いて立てた教科書に隠れて化粧を始めるなんて、何を考えているのだろうか。
リコは週3でホステスのバイトをしている。バイトの次の日は、寝不足ですっぴんのまま来ることもあった。大学ではそのまま過ごし、帰るときに化粧をして街へ繰り出すことはあっても、わざわざ講義中に隠れてするなんて今までなかった。
今日は急いでしなければならない理由があるのだろうか。そんなことを考えていたら、誰かに右肩を叩かれた。リコだ。中途半端に化粧をしたリコが、教室の前の方に向けてあごをクイッと動かす。その先に目線を移すと、シスターが冷たい目でジッとこちらを見つめていた。
「
「は、はい!」
「何度も名前呼んだのに、全然気づかないんだから。あなたも、きちんと目を開けて私の話を聞きなさい!」
「え? あ、ああ。すみません」
一瞬、なぜ怒られているのか状況が呑み込めなかった。時間をかけて考えてみて、やっとわかった。私は、いつのまにか机に突っ伏して寝ていたらしい。リコが怒られているときも、その様子を自分の目で見ているつもりでいたが、うとうとしながら耳から入ってくるシスターの言葉を映像にして勝手に頭に思い浮かべていただけだったようだ。友達が怒られているのを聞いて「バカだなー」と思っていたくせに、一緒に怒られるとはなんて恥ずかしいんだろう。
やっぱり、一睡もせずにきちんと講義を聞くなんて無理だったな。ずっと頭がボーっとしていて、眠いと感じる間もなく寝ていた。
昨日は18時から23時までカラオケBOXのバイトで、そのあと友達と合流してクラブで踊り続けた。外に出ると、すっかり空は明るくなっていた。お腹がペコペコだったので吉野家に行って牛丼を食べ、朝7時半に友達とバイバイした。さてどうしようか。家に帰って寝たいけど、今日は9時から宗教学がある。しかたない、このまま大学に行くか。
そんな流れで、一睡もせずに9時からこの講義を受けていた。
元々朝が苦手なので、必修科目以外は2限以降で時間割を組んでいる。滑り止めで受けただけのこの大学には、どうしても学びたいことがあるわけでもない。とにかく楽に卒業できればそれでいいと思っていた。
自分で言うのもどうかと思うが、私は小さな頃から頭が良く運動もできて、それなりに目立つ存在だった。頭の良さも運動神経の良さも、単に遺伝というだけで努力をしたわけではない。スラッと長く伸びた健康的な脚も、艶のある黒髪も、黒目の大きい瞳も、ぽってりとした赤みの強い唇も、すべて両親からもらったプレゼントだ。唯一コンプレックスと言えるのは、Bカップの胸だろうか。細身の体だからバランスが悪いということはないが、もう少し大きかったら良かったのになと思う。
勉強も運動も見た目も、たいした努力もせず周りから
その後ろめたさをなくそうと、学級委員になったりして積極的にみんなのために動くようにした。何事も真面目に取り組む優等生の私は、大人からの信頼も厚く、私自身もそれが自分の真の姿だと思っていた。
そんなこんなで偏差値70の高校にも簡単に入学できたが、ここにきて人生で初めての挫折を味わうことになった。今までと違い、普段の授業やテストのレベルがかなり高い。頭がよく努力もできる人たちに囲まれ、さすがに努力をしなければついて行けなくなってしまった。でも、今まで努力をしたことがないので、努力の仕方そのものがわからない。
解けない問題を前に「解けないなー」と思うだけで何もしない毎日が過ぎる。そんな状態のままテストを受けては赤点ばかりとっていた。中学までは常にトップ5に入っていたのに、高校では常にワースト5。完全に落ちこぼれの生徒になっていた。
そのまま大学受験を迎えるのだが、なんだかんだ言ってもこの高校に入れただけの力はあるのだから、ある程度の大学なら受かるだろうと思っていた。東京の有名私大の心理学科を本命にして、滑り止めには地元の女子大英文科を選んだ。どうせ本命に受かるからと、滑り止めはどこでも良かった。
でも、世の中そんなに甘くない。本命の私大は不合格。不本意ながら、地元の女子大に通うことになった。
このとき、私は思ったんだ。もういい子のふりするのやーめた、と。
小さな頃からずっと周りに褒められ続けて、自分自身もそれが本当の自分だと思っていた。高校生になって落ちこぼれても、まだそんな自分が認められなかった。今ならわかる。私は凡人。たいしたことのない人間だ。
そう思ったら、一気に楽になった。それと同時に、私の生活は一変した。
女子特有のベタベタした関係が苦手だった私は、女子大にあまり馴染めなかった。それなりにみんなと仲良くはしていたけど、ファッション誌を囲んでこれがかわいい、あれがかわいいとペチャクチャしゃべっている時間が無駄だと感じていたし、恋愛相談をしてくるくせに真剣に答えたら「そんなにキツいこと言わないで」などと言われることにイラついていた。
「女性というのは話を聞いて共感してもらいたいだけで答えはいらない生き物だ」とテレビで言っていたのを聞いて、納得した。どう考えても別れた方がいいクズ男の相談に対し、私は本気で考えてアドバイスをしていたつもりだったが、そもそもアドバイスなんかいらないということだ。なんだそれ。そんなに話を聞いて欲しいのなら、私の貴重な時間を奪わずに、
高校までは共学だったので気づかなかった女子の生態が、女の
そうやって毎日を過ごし、入学して1ヵ月経ったころ、たまたま水野リコと隣の席になった。
初めて言葉を交わした瞬間、この人とは仲良くなれるかもと思った。なんとなく同じにおいを感じたからだ。リコもそう感じたのか、その日から私たちはよく遊ぶようになった。お互いひとりで行動したいときは無理に誘ったりせず、一緒に遊びたいときだけ全力で遊ぶという、いい距離感の関係を築けた。
大学の外に居場所を作りたいという気持ちも共通していたので、隣の大学に何か面白いサークルがないか、ふたりで探し始めた。女子大ということもあり、隣にある大学の男子が毎日のようにサークルのチラシを配りに来ていた。3日間で15枚ものチラシが溜まったので、リコとふたりで吟味して、ある野球サークルの練習と新歓コンパに参加させてもらうことにした。
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