封印した過去

 8月最初の土曜日、太陽がジリジリと肌を焼いてくる。昔の札幌の夏は、気温は30℃を超えてもカラッとしていて気持ち良く汗をかけたが、ここ数年は東京のようなジメジメとした暑さで息苦しくてたまらない。温暖化の影響だろうか。


 マンションのエントランスから外に出てすぐに、宏貴ひろきの車が私の目の前で停まった。


夏紀なつきー、おはよう」


「おはよー。時間ぴったりだね。暑いからすぐ来てくれて助かった!」


「ジメジメしているもんな。よし、じゃあ行きますか」


 宏貴の車で向かう先は、地下鉄東西線・白石駅しろいしえき近くにある不動産屋だ。いよいよ新居探しが始まる。


 宏貴の会社も私の会社も、札幌市の中心部である大通駅おおどおりえき付近にある。通勤に時間がかかるのは嫌だけど、だからといって職場に近すぎるのもまた嫌なもの。大通駅から白石駅までの乗車時間は約7分と、絶妙な距離だ。また、繁華街・すすきのからは、タクシーに乗っても千円程度で済む。終電を気にせず飲めるのはありがたい。


 10分ほどで白石駅の近くについた。駅前にある駐車場に車を停め、目的地を探す。


「あ、ここじゃない?」


 歩き始めてすぐ、ピンクの看板が目に入った。5階建ビルの1階にあるその店舗は、全面ガラス張りで中の様子がよく見えた。奥に見えるのはよくありがちな不動産屋のオフィスだが、手前にある接客用に仕切られた3つのボックスを見ると、それぞれ客が座る側に赤、ピンク、ダークブラウンと色の異なる二人掛けのソファーが置いてある。


 ガラス張りのドアを引いて中に入ると「いらっしゃいませー!」と何人もの女性の声が飛び交った。よく見ると、5人いる店員全員が女性だ。なるほど、だからかわいいソファーが置いてあるんだ。そういえば、以前夕方のニュース番組で見たような気がする。社員は女性だけで、物件も女性向けのものを多く取り扱っている不動産屋、ということで特集を組まれていたはず。


 すぐにひとりの女性が近づいてきた。左胸のポケットにつけられた名札には「土屋つちや」と書いてある。


「いらっしゃいませ。物件をお探しですか?」


「はい、ネットで見た物件の内見をしたいんですけど。これです」


 私は、お目当ての物件を画面に出していた宏貴のスマホを奪って、土屋さんに渡した。


「あと、他にもオススメがあったら探して欲しいです」


「承知致しました。それでは、こちらにお掛けになって少しお待ちください。お待ちの間、こちらの用紙にお客様のお名前、ご連絡先とご希望の条件などをご記入いただいてよろしいでしょうか」


「わかりました」


 携帯ショップ、区役所など、テーブルを挟んで誰かと話すような場面では、だいたい私がやり取りをし、宏貴は置物のようにそばにいるだけだった。


 私の方が理路整然と話すことができ、交渉事も得意だからだ。宏貴は人がいいので、損をするとわかっていても勧められるままに余計な契約をしてしまったりする。ふたりともそれがわかっているから、自然と宏貴は黙り私がしゃべるようになっていた。


 案内された赤いソファーにふたり並んで座っていると、土屋さんが手にいくつかのクリアファイルを持ってやってきた。テーブルの上にそれを並べると、向かいに座る。


「大変お待たせしました。スマホ、お返ししますね。私、竹川たけかわ様を担当させていただきます土屋環つちやたまきと申します。よろしくお願い致します」


 土屋さんがテーブルの宏貴と私のちょうど真ん中に、名刺を置いて言った。記入用紙には契約者となる宏貴、そして同居する私のフルネームも書いたが、土屋さんは宏貴の名字を呼んで私たちふたりに挨拶をしてきた。そして、クリアファイルから資料を取り出しながらしゃべりだす。


「まずこちらが、竹川様がネットで見られていた物件です。この物件と条件が似ているものも持ってきました。こちらとこちらになります」


「ありがとうございます」


 まずは、ネットに掲載されていた物件の資料を宏貴と一緒にじっくり見てみる。ネットの情報と違う部分は、特にないようだ。それから、土屋さんが探して持ってきてくれたふたつの物件の資料にも目を通す。確かに、このふたつも私たちの希望条件を満たしている。


 絶対に譲れないのは、バス・トイレ別、独立洗面台、室内洗濯機置き場、駐車場つき、そして50㎡以上の2LDK。それから、白石駅から徒歩5分以内、築20年以内。あと、予算は9万円だけど安いにこしたことはない。


 こうやって並べてみると、結構わがままな条件かもしれない。でも、最初から妥協する必要はない。実際、この条件に合う物件がもう3つもあるんだし。


「土屋さん、これ全部、今日内見することはできますか?」


「確認してくるので、少しお待ちいただいてもよろしいですか」


「はい、お願いします」


 土屋さんは、奥にある自分のデスクに消えていった。


「宏貴はどれがいい?」


 ずっと黙っていた宏貴に話しかける。


「やっぱりネットで見たやつが一番いいかなと思うけど、他のふたつも結構いいよね。実際に見てみないとわからないかな」


「だよね。写真と全然違うかもしれないし」


 そのとき、宏貴がズボンのポケットからスマホを取り出した。誰かから電話が来たようだ。


「あ、母さんだ。なんだろ? ちょっと電話してくるね」


「うん」


 宏貴が、店の外に出ていく。やることがなくなった私は、店内をグルッと見回してみた。マガジンラックがある。店内のかわいい雰囲気に合わせるように、ファッション誌が並べられていた。ちょっと近くで見てみようか。私は、ソファーに荷物を置いて、手ぶらでマガジンラックに近づいて行った。


 ティーン向けのものから、40代向けのものまでいろいろ揃っている。色とりどりの雑誌に挟まって、無機質な新聞が置かれていた。女性向けのファッション誌に興味がない客用だろうか。その場違いな感じが逆に気になって、手に取ってみる。


 ちゃんと今日の新聞だ。一人暮らしをするようになってから、新聞を読むことがなくなっていた。なんとなく懐かしい気分になり、開いて中の記事にも目を通す。


 ん?


 今、見覚えのある名前が目に入ったような気がする。サッと全体に目を通していただけなので、どこにその名前があったかわからない。右上から丁寧に読んでいく。


 そして、見つけた。これだ。


 立花翔たちばなしょう(26)。


 あの翔、だよね? 年齢はあっている。名字ははっきりと思い出せないけど、立花だったはず。


 久しぶりに見たその名前に、鼓動が速まる。


 記事には、立花翔が傷害と大麻所持の容疑で逮捕されたと書いてあった。大変なことだが、正直あの翔ならそんなことがあってもおかしくないし、今の私にとって問題なのはずっと避けてきた翔の名前を目にしてしまったことだけだった。


 避けてきたのは翔だけではない。あの頃の私が、スケジュール帳のメモ欄に書いた男全員だ。宏貴という大切な人に出会って、封印した過去を今、全部思い出してしまった。


 あの頃の自分に戻ってしまう。あの頃の自分に――。

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