夏紀25歳、最愛の人

夏紀なつき? 聞いてる?」


「あ、ごめん。ボーッとしていた。なんの話だっけ?」


「引っ越しの話だってば。俺、9月の最初の月曜から札幌本社に通勤しなきゃいけないから、その前の土曜日には引っ越したいのね。もう1ヵ月ないし、今週の土日には物件を見て回って、新居決めちゃいたいって話」


「あー、そうだったね。うん、土日空けておく」


「ちなみに、これなんかどう?」


 宏貴ひろきがスマホの画面を見せてくる。地下鉄東西線白石駅から徒歩1分の賃貸マンション、3階の角部屋、2LDKで家賃は管理費込みの8万円。都心に住んでいる人には信じられない安さかもしれないが、札幌での相場はこんなもんだ。さらに、敷金は1ヵ月分、礼金はなしという物件が数多くあり、更新料なんてものは存在しない。


「おー、駅近くていいね。あ、でも駐車場は?」


「ついているよ。月1万円だって」


「へえ、いいんじゃない? じゃあ、今週末この不動産屋さんに行ってみよう」


「うん! あと、これも良くない?」


 いろいろと物件をピックアップしてきたようで、次から次へと見せてくる。物件を見るのは嫌いじゃない。この部屋に住むならどんな家具を置こうかな、なんて妄想をする時間は楽しいと感じる。まあ、私も一緒に住むことになるので、楽しくてもそうでなくても見なければならないのだが。


 竹川宏貴たけかわひろきは、今私が付き合っている人だ。宏貴も私と同じ札幌市で生まれ育ったが、大学卒業後に就職した会社での配属先が苫小牧支店となり、3年半苫小牧市で暮らしている。


 私と宏貴が出会ったのは、去年の春。たまたま札幌本社に出張に来ていた宏貴が、行きつけのバーに顔を出していて、私は私で友達のリコに連れられて初めてそのバーに行ったのだった。宏貴とリコは常連同士の顔見知りだったので、自然とカウンターに3人並び、マスターも交えながら会話する流れとなった。


 宏貴は私とリコの1つ上だった。札幌市内で生まれ育って歳も近いとなると、共通の知り合いが多くいて話が盛り上がった。そろそろ帰ろうかとなったときに宏貴から連絡先を聞かれ、ちょうど彼氏もいなかったので教えることにした。


 正直、最初は宏貴に対してまったく興味がなかった。でも、1カ月ほど連絡を取り合っているうちに誠実な人柄にかれていき、告白されたときには私も好きになっていた。


 それに、札幌と苫小牧という車で1時間半ほどの中距離恋愛がちょうど良かった。会えるのはお互い休みである土日か、宏貴が札幌出張のとき。ただ、その日にどちらかが他の予定を入れていれば、無理に会おうとはしない。束縛されるのが嫌いな私からすれば、相手を尊重しながらきちんと愛情も感じさせてくれる宏貴は最高の恋人だ。


 そんな宏貴が、札幌本社に転勤になり、来月からこっちに住むことになった。どうせなら一緒に住まないか? と同棲を提案され、私は迷わず頷いた。中距離恋愛がちょうど良いと言いながら同棲はOKだなんて矛盾していると思うかもしれないが、どうせお互い札幌市内にいるなら、一緒に住んだ方が無駄に連絡を取り合ったりせずに済むので楽だと思った。マメに連絡をすることが苦手な私にとっては、直接話せる距離にいてくれた方が楽ということだ。


 それに、私、麻宮夏紀あさみやなつきも、今年の12月には26歳になる。最近は、結婚についても考えるようになった。女子大を卒業して、音楽関連会社の事務員として働き4年目。この仕事は好きなので、結婚をしてもずっと続けていきたいと思っている。


 まだ付き合う前、宏貴と結婚観について話したことがあった。宏貴はこの先、道内のどこに転勤になるかわからないけど、もし奥さんが札幌で仕事をしたいというなら、そのときは別居婚でも良いと思っていると言っていた。私が求めていた考え方そのものだった。


 今まで宏貴ほど一緒にいて楽だと思った人はいないし、結婚観まで合っているなんて、私の運命の人はこの人なんじゃないかと思った。だから、宏貴とだったら同棲してもいいかな、と素直に思えた。


 宏貴が札幌出張のついでに泊まりにきて、穏やかで楽しい時間を過ごしている今、私はとても幸せだった。


 そう、とても幸せなんだ。


 なのに、何かが引っかかっていた。なんだろう。私は何かを忘れている。たぶん、それはとても大切なこと。思い出さなければいけない過去がある気がする。


「夏紀? 聞いている?」


 私の顔を覗き込む宏貴の言葉で、ハッと現実に戻った。


「あ、ごめん。ボーッとしていた。なんの話だっけ?」


「引っ越しの話だってば。俺、9月の――」


 そうだった。新居の話をしていたんだった。私は宏貴と同棲するんだ。幸せな毎日を送って、いずれはこの人と結婚するんだ。


 さっきの違和感は頭の奥へとしまいこんで、私は宏貴との楽しい時間に再び戻っていった。

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