約束に意味はない
鵠矢一臣
約束に意味はない
小児病棟。個室だ。棚のようになった窓の額縁には花瓶。橙、黄色、ピンク、明るい色彩の花がいけられている。
大人用のものより一回り小さいベッド。野球帽とグローブを着けたタカシ少年が、ソファに近い角度まで起こしたマットレスに背を預けている。
タカシはコホコホと咳をした。
花瓶の水を替えようとしていた母親があわてて振りむき、タカシの背中をさする。心配そうな表情。
「大丈夫?」
「うん。だいじょうぶ。ちょっとむせちゃっただけだよ」
母の顔ごし、大きな窓の向こう側に、飛行機雲が白い線を引いていくのが見えた。
「わあ、ヒコーキ雲だ!」
「ほんとね。元気になったら、大好きな飛行機、いっぱい見に行こうね」
「……うん」
明日、タカシは大きな手術を控えている。
今のままでは、あと三年と生きられないらしい。
「やっぱりまだ怖い?」
「う、ううん。だいじょうぶ!」
母の悲しそうな顔を見たくなくて、精一杯、取りつくろってみせる。
手術日が決まってから、何度も繰り返してきたやりとり。
表情を確認する。母からもまた取りつくろうような笑いが返ってきて、なんとなくお互いに区切りとなるまでが一連の流れだ。
しかしこのとき、母はいままでにないぐらい明るい笑顔を見せた。
「実は今日ね、すっごい人がお見舞いに来てくれるのよ」
「すごい人?」
バッチリのタイミングで、病室のドアがノックされた。
母はタカシにウインクをすると、いそいそと来訪者を迎えに行く。
引き戸がほとんど音もなく開くと、そこにはタカシの憧れの人物が立っていた。
「イチロー!?」
「やあ、タカシ君」
タカシの祖父の代でイチローと言えば振り子打法のあの選手だ。しかし今やイチローと言えばこの筋骨隆々の選手。名は『一郎丸康介』球界屈指のスラッガーだ。
どうやら父と母が球団にかけあってくれたらしい。
グローブを貰ったり、ボールにサインをねだったり、楽しいひとときを過ごしたあと、イチローはタカシと約束を交わした。
「今日の試合、タカシ君のために必ずホームランを打つよ」
「ほんと!?」
「ああ。その代わり、タカシ君は手術を頑張ること。いいね?」
「うん!」
その夜。ラジオの野球中継から聞こえた、アナウンサーの「入ったー!!!」という叫びを何度も頭の中で反芻し、ダイヤモンドをゆっくり回るイチローの姿をありありと思い浮かべながら、タカシは眠りについた。
◇◇◇
小児病棟。個室。
タカシはベッドに寝ていた。
1回目の手術は無事に成功した。しかし1回だけでは充分ではなかったらしい。
翌日にその2回目が控えている。
「タカシ、調子はどう?」
「うん。前よりもずっと楽だよ。咳もあんまりでなくなった」
「そっか。タカシが元気になってくれて、お母さん嬉しい」
「……うん」
1回目はイチローの励ましで乗り越えられた。だが2回目はどうだろうか。
タカシは不安だった。
「ふふふ。タカシ、今日ね、すっごい人がお見舞いに来てくれるのよ」
「え……、もしかしてまたイチローが?」
バッチリのタイミングで、病室のドアがノックされた。
母はタカシにウインクをすると、いそいそと来訪者を迎えに行く。
引き戸がほとんど音もなく開くと、そこにはタカシの二番目に憧れの人物が立っていた。
「ニチロー!?」
「やあ、タカシ君」
日下部次郎。毎年イチローと首位打者を争っている強打者だ。
ニチローは、タカシが前向きに手術を受けることを条件にして、ホームランか3打点のどちらかを果たすと約束した。
少しだけ微妙な感じがしたが、タカシは黙って受け入れた。
その夜。たしかにニチローは3打点を叩き出した。
タカシも、まあ、約束は約束なので前向きに手術に望んだのだった。
◇◇◇
先端技術研究所。LAB3。
天井から伸びた鋼鉄製のアームに支えられ、フルメタルボディの人型が立っている。
頭部、腕部、背部、胸部など、各種パーツに太いケーブルが繋がっており、人型の脇にすえられた液晶にはパーツから吸い上げられたらしいデータが表示されている。
タカシの母が人型の顎部ダンパーに触れながら言う。
「タカシ、いよいよ明日が最後の手術ね」
「そうだね。前回交換した、脚部ジェネレータの調子もいいし、大丈夫だよ」
声帯はないので、タカシの肉声をトレースした機械音声だ。
喋るのに合わせて、アイカメラ周辺の発光素子が明滅する。
「ああ、余命3年だなんて言われたあなたが、こんなに立派になってくれて。お母さん嬉しい」
「うん。これでようやく、飛行機を見に行けるね」
「そうね。約束だったわね」
「空も飛べるから、すぐ近くで見れるよ」
「ふふふ。お母さん凍え死んじゃうわよ」
「はは。それもそうだね」
「そういえば、今日も来てくれてるのよ。タカシが前向きに手術を受けられるようにって」
「……だれ?」
「――イチローよ」
「わあ、懐かしい! 最初の手術のときぶりだ!」
「あれ? タカシ、もしかしてマイク素子の調子が悪いの?」
「え?」
研究室のドアがノックされた。
母はタカシにウインクをすると、いそいそと来訪者を迎えに行く。
ロックを示していた赤ランプが緑へと変わり、扉が左右にスライドした。そこにはタカシの知らない、長いボサボサ髪の人物が立っていた。
「……だれ?」
「やあ、タカシ君。ニセンイチローだよ」
名前は、
なんだかよくわからないまま、応援歌を聞かされ、無理やり渡された自主制作のCDに頼んでもないサインをしてもらって、最後に約束をした。
「俺、今夜のライブで必ずメジャーデビューの夢つかむからさ。タカシ君も手術、頑張ってくれよな」
「あ、ああ。はい。ありがとうございます」
ニセンイチローはそそくさと帰っていった。
遠い目で母が言う。
「それにしても、いろんな人たちに応援してもらったわね……」
「うん。それはそうだね」
「タカシは、どの人の励ましが一番よかった?」
「うーん。21回目に来た人かな」
「どうして?」
「だってさ、正直だったもん。三軍で、ベンチで、なにも約束できないんだけど、生きてるのは楽しいよ、って笑ってた。どんな姿でも、死ぬよりは生きてるほうがいいって思えたからさ」
「タカシ……」
いよいよ明日は最後の手術。タカシに唯一残っている生身の脳神経ネットワークは、完全にナノマシンに置き換えられる。
これによって、今まで誰も克服できなかった難病を、人類で初めて克服することになる。
ただし、置き換えが100%成功するという保証はない。予期せぬ結果にならないとは限らないようだ。最悪の場合、自我が失われるどころか、暴走メカになり果ててしまう可能性があるらしい。
駅前でニセンイチローが歌っている。誰ひとり足を止める様子はない。
彼ががっくりと肩を落としてギターケースをしまおうとしているところに、スーツ姿の男が近寄って、名刺を渡してなにやら彼に話しだした。
タカシはその出来事を知らない。そもそも興味もなかったので、すっかりニセンイチローのことなど忘れてしまっていた。
アイカメラを停止させると、あとはただひたすら、猛スピードで飛ぶジェット機と、それと並んで飛ぶ自分を想い描き続けていた。
(了)
約束に意味はない 鵠矢一臣 @kuguiya_kazuomi
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