ヒトの変異とその意味を探る

水円 岳

 へらへらした大学教授というのも嫌だが、今目の前にいるこのセンセイもとことん苦手だ。なんというか能面相手にインタビューしているようで、ものすごくいらいらする。


「遺伝的変異を起こした生物は、どの程度生き残れるんですか?」

「それは変異によって変化する形質の質と量、および遺伝情報の頑強性ロバストネスに依存します」


 科学雑誌の記者である私は、最先端の進化研究を手がけている永井ラボにお邪魔し、永井教授から直接説明を伺っていた。ちなみに教授は生物学者ではなく物理学者で、時間加速をメインテーマにして研究を行なっている天才肌の学者だ。


 特定空間の時間の流れを早める技術は、まだ実験段階ではあるもののすでに完成している。ただ、それはSFによく登場するタイムマシンにはならない。時間を巻き戻すことができないからだ。

 勢い、技術の応用先は物体の経時変化把握が主となる。教授はそれを物性ではなく、生物進化の解明という異分野に持ち込んだ。予測せず、実証で遺伝変異を調べるというのはまさに画期的なトピックだったのだ。


◇ ◇ ◇


 昨今、遺伝子組換えによって新形質を獲得させた生物の商業利用はごく当たり前になっている。操作された部分しか変異しないことは利用面では望ましいのだが、組み入れた変異が長期間維持されるとは限らず、それらが内在要因、外部要因によってどのように再変異していくのかも予測がつかない。

 コンピューターシミュレーションでどれほど予測を高度化したところで、結局のところ予測の域を出ないのだ。生物が代を重ねていく間に、どの遺伝子が、どのような頻度で、どのように変異していくのかを実証的に調べる意義は非常に大きい。


 これまで進化の実証試験は、バクテリアなどライフサイクルの短いものを中心に行われてきた。それらが対象であれば、千回だろうが一万回だろうがいくらでも継代することができる。しかし、ライフサイクルの長いものではそうはいかない。一番わかりやすい例は我々人類だろう。


 ホモ・サピエンスとして種が確定してからの変異がどの程度なのかを、過去に遡って調査することは可能だ。しかし、それらは全て状況証拠による変異の推定にとどまる。なぜなら、この世にすでに存在しない者たちの形質を死骸から全て再現することは不可能だからだ。

 現代のヒトが二十五歳で出産し次代の子孫を生産するとすれば、百年の間に四代ということになる。五百年に二十代ならば、その間の遺伝子変化を実証的に追うことは決して夢の話ではないが、科学の進捗速度に比べ極めて遅々とした歩みであることは否めない。実証はできるものの、五百年後に意義があるかどうかは極めて疑問なのだ。


 そこで教授は考えたわけだ。時間を加速できる環境を作れば実証試験ができる、と。タイムアクセラレータと名付けられた空間の中に生物を格納し、継代間隔を強制的に縮めてやれば、ヒトの場合五百年かかる二十代の継代をわずか数日に短縮することができる。


 ……理論上は。


 実際には、そんなに甘くはない。生物が生存するのに必要な資源は継代の間ずっと維持されなければならないし、資源の変質は短縮される時間とともに加速される。つまり閉鎖空間に入れっぱなしにすれば、ただ死滅が早まるだけで変化を実証することはできないのだ。


 教授は、閉鎖空間をビオトープに仕立てることでくだんの難題を回避しようとした。空間内に資源量が維持され続ける生態系を成立させれば、資源枯渇の問題は解決するであろうと。遺伝情報の変異だけでなく、空間内部の様々な環境圧力が遺伝情報に及ぼす変異も同時に測定でき、一石二鳥ではないか!


 資源がミニマムで済む原始的な生物で予備実験を行い、それが一定の成果を納めたので、いよいよ高等動物を用いた実験に踏み切るという説明だった。


「さすがに、いきなりヒトではできないですよね」

「もちろんです。ヒトはとても厄介な実験材料なんですよ」

「え? どうしてですか?」


 教授は、顔色一つ変えずに淡々と説明を続ける。


「ヒトには精神というものがあります。たとえ与えられた空間がとても快適であったとしても、極めて限られた空間で生存し続けるということができません。生物能力の限界ではなく、脆弱な精神を持った存在としての限界が厳然とあって、それは回避できないのです」

「そういうものですかねえ……」

「アダムとイブは、聖書の中だけの話ですよ」


 言われてみればそうかもしれない。小さなビオトープを維持していくためには、たくさんの子孫を作れない。子孫同士の血族結婚が続けば、すぐに近交弱勢の悪影響が表面化する。

 かと言ってビオトープに組み込む番い数を多くすると、現実の我々が悩まされ続けている社会学的な諸問題がすぐ鎌首をもたげる。結局個体群が維持できなくなる……ということか。


「まあ、まだ予測に過ぎないのですが」

「ええ」

「ヒトの遺伝情報はあまりに複雑だ。生物としての健全性を維持したまま変異も許容するというのは二律背反です。ヒトというのは、遺伝特性を変えることより変えないことを選択して生き残ろうとしている極めて保守的な生物……そういう印象を持っています」

「印象、ですか」

「そうです。実証はできませんから」


 教授が、小さなゲノムセットの図を指差した。


「それに比べ、ウイルスというのは数限りなく変異を繰り返すことで生き延びてきたわけです」

「ええ」

「そこに強い自我があったら、ウイルスは先ほどのヒトの例と同じように衰微してしまうはずです。生存最優先で、意思なんか借り物でいい。ウイルスに自我という概念は存在しないのでしょう」


 話はとてもおもしろいのに、説明には気味が悪いほど熱がこもっていない。天才研究者ってのは、みんなこんな感じなのかね。私がメモを取り終わるのを待っていたように、教授がすいっと立ち上がった。


「じゃあ、意思を持つヒトという生物は、今後どこまで変異を抑え込めるんでしょう?」

「うーん」


 その時。初めて教授がにっこりと笑った。


「二十回繰り返して成功しなくても、二十一回目に成功することがあります。それは通常の時の流れの中ではどうしても確認できません。ここでしか」


 教授が、まだ真新しいタイムアクセラレータの頑丈なドアをぽんぽんと叩いた。


「確かめ得ないのです」


◇ ◇ ◇


 教授の数々のセリフが、どうにもこうにも引っかかった。ヒトでは実験できないと教授が言った理由。それは倫理に基づいていない。ヒトってのは変異しにくいという現実的な理由だ。だが、教授の最後のセリフは奇妙なニュアンスだった。これからの話ではなく、既存の事実のよう。


「む……」


 四代で百年、二十代で五百年かかるヒトの継代。それを新開発のマシンでうんと短縮すれば、遺伝変異を確かめられる。だが生物歴史上、五百年というのは大した時間経過ではない。過去五百年の間に人類の形質が激変したという形跡はどこにも見られないのだ。それなのに、教授は二十代という具体的な数値を例に出した。


 もしや……。急に背筋が寒くなった。


「教授が言ったのは、例ではなく実際の実験結果だったんじゃないのか?」


 そう考えれば辻褄が合う。


 単為生殖できないヒトは、交配でしか子孫を残せない。実験を行うためのネックの一つは、倫理的なものではなく生物としての限界だ。だが、もしクローンを使えればその欠点はカバーできる。


「そうか」


 一代分、齢の異なる二体のクローンをビオトープに置き、子クローンが成人に育てばに戻す。その遺伝変異を調べた上て次のクローンを作り、同じことを繰り返す。用済みの旧クローンは、時間をうんと加速すれば瞬時に消えるんだ。

 だが、教授が言ったように人間には精神がある。向こうには向こうでの時の流れがあるから、まともな精神がずっと維持できるとは思えないんだが……。


「あっ! 違う!」


 思い出せ! なぜ教授がウイルスの話を出した? ウイルスは変異することでしか生き残れない。ヒトにしか感染できないウイルスは、ヒトが変異して耐性を示すようになれば絶滅してしまう。ウイルスがであれば、それは単なる現象であって、どうってことはない。だが、もしウイルスに意思があれば彼らはどう考える?


『ヒトの変異を止めよう』


 さっき教授が言った『ヒトが保守的な生き物である』という評価はそこに由来するんだ。しかし、ヒトが生物である限り変異は必ず起こる。変異は、ヒトの意思では止められないんだ。じゃあ、ウイルスはどうすればいい?


「ヒトを家畜化すればいい……か」


 ウイルスの需要を全て満たす、ヒトの改良種の生産。それは、ヒトの精神が残っている間は叶わないだろう。つまり……二十回の継代を繰り返してきた意味は。


「意思の消去だ。教授の意思が、完全にウイルスのそれになっているということ。置換が完全に完了するまで二十回。二十一回目にはヒトの意思を凌駕できるウイルスが誕生し、その家畜になった教授が完成……」


 何かが体内でフラッシュした。思考が急にブラックアウトし、そのあと一転してクリアになった。推論を書き殴ったメモをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り捨てる。


「何をバカな。はは……ははは……はは」



【 了 】

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