毛髪増量特効薬

沢田和早

毛髪増量特効薬

 いったいいつ頃から頭髪が寂しくなったのか、今となってはとんと見当が付かない。少なくとも大学生の頃は人並みの毛髪量を保持していたと記憶している。

 それがいつの間にか毛量が減り始め、アラサーの今ではつるっぱげになってしまった。

 やはり就職してからの乱れた生活習慣、ストレス、偏った食事内容、これらが原因なのだろうな、たぶん。


「気晴らしに旅行でもするか」


 私は南国へ旅立った。一年中北風が吹いている枯れた頭に南国のハゲしい日差しを照射してあげたくなったのだ。


「こ、これは」


 お寒い頭皮に太陽の温もりを感じながら通りを歩いていた私は、その文字を一目見た瞬間、枯れ山の頭に桜前線が到達したような衝撃を覚えた。


「絶対効く毛生え薬あります!」


 そう書かれているのは薬局の看板だった。かなり怪しい店構えだ。でかい金玉の信楽焼き狸と青銅製のシーサーが並んで置かれている。


「こんにちは」


 中に入ると泡盛の香りがした。恐らく40年モノの古酒であろう。


「あ~はいはい毛生え薬ね。ちょっと待っててね」


 私の姿を、と言うより私の頭を見た瞬間、店主のオヤジは店の奥へ引っ込んでしまった。余計なことを言わずに済んだので有難い。


「よっこらせ」


 奥から戻ってきたオヤジは私の前にダンボール箱を置いた。かなり重そうだ。


「はい、これが毛生え薬。1本2百円。1箱に20本入っているから全部で4千円ね」

「えっ、いやそんなには要らないよ。試しに数本だけ買って行こうかと思っている」

「ダメダメ。それじゃ効果が出ないから。この薬は飲めば飲むほど毛が生える、いわゆるべき乗効果システムを採用しているんだからね」

「べき乗効果システム?」


 そこからオヤジの説明が始まった。1本飲んだだけでは発毛効果は週に平均1.8本程度しかない。しかし1週間後、2回目の服用によって1.8の2乗、つまり約3本の発毛が期待され、さらに1週間後、3回目の服用によって1.8の3乗、つまり約6本の発毛が期待されるというわけである。


「本当かなあ。何だかウソくさいけど」

「別に要らないならそれでいいよ。でもたった4千円でつるっぱげ頭がふさふさ頭になるかもしれないんだよ。あっ、ちなみにこれが最後の商品。メーカーが倒産したから再入荷は不可。世界中探しても絶対に見つからない。これが最後のチャンス。さあ、どうするどうする」


 これが1万とか2万なら決して買わなかっただろう。しかし缶ビール並みの値段ならば騙されたとしてもさほど悔しくはない。私は購入を決意した。オヤジはにやりと笑った。


「まいどあり~。このまま持って帰るかね」

「いや荷物になるから宅配で送ってくれ」

「あいよ。ああ、それからあんたいい人みたいだから1本おまけしといてあげるよ。ふっふっふっ」


 オヤジの笑いに不気味さが加わった。ちょっと嫌な予感がした。


 数日後、アパートに薬が届いた。開けると約束通り21本目が強引に箱の中に押し込まれていた。

 手に取ってみる。容器はアルミ缶。内容量350ミリリットル。原材料、賞味期限、製造者などの情報は一切書かれておらず、ただ「絶対効く毛生え薬。週に1回服用」の文字だけが書かれている。


「どれどれ」


 試しに飲んでみた。完全にビールの味だ。もはや騙されたとしか思えない。


「まあいいか。ただのビールだったとしても飲めない味じゃないし。冷蔵庫に冷やしておこう」


 その日は日曜日だったのでそれから毎週日曜日には食後にこのビールみたいな薬を飲んだ。最初の数回は何の変化もなかった。おや、と思い始めたのは12回目の日曜日が訪れた時だ。


「こ、これは、生えているじゃないか」


 頭の全範囲に渡って数ミリの毛髪が生え始めている。これまでに薬を11回飲んでいる。1.8の11乗は約640。確かにそれくらいの本数はありそうだ。


「本物だったんだ」


 それからは幾何級数的に毛髪が増えていった。15回目の日曜日は約3700本。17回目の日曜日は約2万本。これだけ増えると会社で話題にならないはずがない。


「おいおい、どこの植毛クリニックに通っているんだよ」

「いえ、これは地毛です。最近凄くよく効く毛生え薬を入手しましてね」

「まじか。オレにも教えてくれ」

「メーカーが倒産したので二度と手に入らないそうです」


 もちろんそんな話を信じる者など一人もいなかった。「カツラ?」「やっぱり植毛?」「どんだけ金かけてんだ」そんな声が聞こえてきても少しも気にならない。あんなに格安で絶大な効き目の薬を入手できた自分は本当に幸福者だとしみじみ感じていた。


 週1回の薬の服用は続いた。そして21回目の日曜日、ついに頭髪は1.8の20乗、約13万本に達した。本数が増えるにつれて髪の長さもどんどん伸びていく。今では薄毛どころか毛量が多すぎて困るくらいだ。


「頭髪の本数は平均10万本らしい。ついに人並み以上の本数になったわけだが……」


 箱の中にはまだ1本残っている。オヤジがサービスでおまけしてくれた1本だ。これを飲めば1週間後の頭髪は約23万本になっているはずだ。


「今はこんなにふさふさ頭でも年を取れば減る一方なんだし、薬にだって消費期限はあるだろうから残しておいても仕方がない。飲んでおくか」


 箱から最後の1本を取り出し21回目の服用を終えた。相変わらずビールの味だった。


「な、なんてこったああああー」


 悲劇は1週間後に発生した。日曜日の朝、起床した私が見たものは布団の周辺に大量に散らばった毛髪だった。


「ウ、ウソだろ。抜けてる。全部抜けてる」


 鏡を見て愕然とする。約半年前の自分に、つるっぱげの頭に戻っている。慌てて空になった薬の箱を見た。底に敷かれた仕切り紙を除けると小さな封筒が張り付けられていた。中には紙切れが一枚入っている。こう書かれていた。


『過剰な服用にご注意ください。人間の毛髪量は約10万本。この2倍を超える量を無理矢理生やそうとすると異常な自己免疫反応が引き起こされ、頭髪はすべて抜け落ちます』


「く、くそ。あのオヤジめ」


 1本おまけすると言った時の悪魔のようなオヤジの微笑み。本当に悪魔だった。最初から嵌めるつもりだったのだ。髪を増やして喜ばせておいて1週間後一気につるっぱげにする、そのための1本だったのだ。


「善良な客に何たる仕打ち、許せん!」


 怒りに震える私はすぐ南国へ飛んだ。一言オヤジに文句を言ってやらないと気が済まない。


「ない……」


 しかし店はなかった。看板はもちろん信楽焼き狸と青銅製のシーサーもない。ただ緑がうっそうと茂る樹木が1本立っているだけだ。通り掛かった地元の人に訊いてみた。


「あの、すみませんがここにあった薬局はどうなりましか」

「薬局? そんなものないよ。ここには昔からそのガジュマルが生えているだけだ」

「ガジュマル……」


 聞いたことがある。ガジュマルの木にはキジムナーといういたずら好きの妖精が住み着いているそうだ。もしかしたら私のつるっぱげを見てからかいたくなったのかもしれないな。


「妖精の仕業なら仕方ないか」


 風が吹いてきた。ガジュマルの葉がざわざわと鳴った。


「南国の風なのに、いやに頭に染みやがるぜ」


 そろそろ冬がやってくる。毛糸の帽子でも買って帰るとするか。


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