Q2 世界が終わっていたらどうする?


 「いつつ」


 背中に感じる硬い床の感触で目が覚める。

 ゆっくりと上体を起こしてから寝ぼけまなこできょろきょろと辺りを見渡すと、そこが自分の部屋の中であることが分かった。

 閉め切ったままであるカーテンの隙間からは、微かに太陽の日差しが差し込んできている。


 「俺は確か……」


 徐々に覚醒していく思考でこれまでのことを思い出し、その瞬間に勢いよく飛び上がった。


 「あっ、あいつはっ!?」


 慌てて玄関の方を確認してみると、扉は無事に顕在したままであり、今はもう誰かが外側から叩いてくるような気配もしていない。

 あの男はどうなったのであろうか。

 そんな疑問から俺は恐る恐るドアの方へと近づいていき、高鳴る鼓動を押さえつけながらそっと覗き穴を覗き込んだ。

 この扉のすぐ向こう側に例の男がいるかもしれない。そんな恐怖から口元を押さえつつ外を覗き見た俺だったが、幸いにもそこに男の姿は無かった。


 「……ふぅ」


 ホッと息を吐いて部屋の方へと向き直すと、今度は打って変わってハッと息を呑んだ。

 部屋の床には、乾ききった血痕がこびりついていたのだ。よく見てみれば、今着ているジャージも所々赤色に染まってしまっている。

 記憶に違いがなければ、これは俺の血だということになるのだろう。


 「そうだっ、傷はっ?」


 そこでようやく傷のことを思い出した俺は、今更になって噛まれた左手がどうなっているか確認する。


 「……え?」


 そして、そんな気の抜けた声を漏らした。

 男に噛み千切られたはずの左手は、まるで何事もなかったかのように元通りになっていたのだ。血などは当然のように流れておらず、傷もきれいさっぱりと治ってしまっている。


 「どうして」


 わけが分からなかった。

 ただ眠っていたというだけで、噛み千切られた傷が元通りになるはずがない。

 あれは夢だったのか?いや、ありえない。そうだとしたら、この血痕は一体どうやって説明するのだ。

 消えた左手の傷を前に、俺の混乱はどんどんと激しくなっていく。


 「……ふぅ」


 荒ぶる心を静める様に、大きく息を吐いた。

 とにかく、まずは一度冷静にならなければならない。


 「落ち着け。まずは、えっと……服。そうだ、服をどうにかしよう」


 自分に言い聞かせるようにしながら、血の付着した服を着替えるために洗面所へと向かう。

 鏡の前で上半身の服を脱ぎ終えると、俺は再び衝撃的なものを目にすることになった。

 適度に引き締められた筋肉を纏った細マッチョが鏡に映し出されていたのだ。


 「…………」


 最早言葉も出なかった。

 約一年間の引きこもり生活をしていた俺は、ほぼ皮と骨だけのガリガリな身体をしていたはずだ。では、この鏡に映っているのは一体誰なのか。何度目を凝らしてみても、それは間違いなく葉木芝隆二じぶんなのである。


 「……もう、わけ分かんねえよ」


 理解の追いつかない出来事に立て続けに直面したせいか、軽い眩暈と共にどっと疲労感が押し寄せてくる。

 俺は考えることをやめていそいそと服を着替えると、ふらつく足取りでベッドの上へと腰掛けた。

 少しでも気を紛らわせようと、普段はほとんどつけることの無いテレビの電源をオンにする。しかし、そこに映し出されたのは電波を受信していないことを意味するカラーバーだけだった。極まれに深夜に目にすることがあるようなその映像が、この真昼間からどこのチャンネルでも同じように映し出されているのだ。

 俺は慌ててスマートフォンを取り出し、SNSや掲示板を確認する。幸いネットの方は正常に機能している様であり、無事に接続することが可能だった。

 そして、俺はようやくこの世界に起こっている異常事態について知ることとなる。


 「なんだよ、それ」


 ネットから集めることができた情報は、どれも理解し難いものばかりだった。

 “ゾンビパンデミック”

 一言で言ってしまえば、世界は今まさにそんな状況に陥ってしまっているというのだ。死者が蘇って動き回り、生者に向かって襲い掛かる。そんな事態が、世界全体で同時に起こっているのだという。

 一体何の冗談だと、ただ情報を聞いただけでは素直に信じることはできなかっただろう。だが、俺は実際にこの目で見てしまっている。明らかに生きていられるわけがない状態にありながら、こちらに向かって襲い掛かって来た男の姿を。


 「あの男がそうだったってのか」


 更に多くの情報を集めるために、俺は夢中になってネットの情報を漁り続ける。

 まず、事が始まったのは5日ほど前のことだったようだ。日本の各地で、暴力事件が同時多発的に発生している。最初はそんなニュースだったという。その発生地域はあれよあれよという間き広がっていき、その日の夜にはすべての地上派チャンネルが緊急放送に切り替わった。そして、世界各国が混乱に陥っていることや、これがただの暴力事件ではなく、所謂ゾンビパンデミックのような事態であることが政府から公式に発表されたのだ。

 ネットの情報はテレビよりもよっぽど迅速だったようで、最初の事件が発生した数分後には、SNSで"ゾンビ"という言葉がトレンド入りを果たしていたらしい。最初はほとんどの人がそれをデマだと思っていたようだが、政府の発表によってそれが真実味を帯びることになったのだ。

 5日も前からそんな事態になっていたというのに、俺は全くそのことに気がついていなかった。その理由は至って単純で、テレビもSNSも見ずに引きこもっていたからである。


 「ここ数日、少し外が騒がしいなとは思ってたけど……」


 ここまでの大惨事に気がつかないなど、我ながら呆れたものだ。

 

 「それで、昨日になってテレビが映らなくなった。か」


 政府からの声明を連日伝えていたテレビは、昨日から使い物にならなくってしまったらしい。一応、政府の公式サイトはまだ発信を続けているようだが、その内容は繰り返し自宅待機を呼び掛けるだけのものであり、組織がまともに機能しているがどうかは微妙なところだ。

 そうなってしまえば、いよいよ事態を収拾させることは不可能であるという意見がネット上で目立ち始める。幸い電気や水道などのインフラはまだ生きてはいるが、それもいつまでもつかは分からない。

 もう世界のルールは変わってしまったのだと、動き回る死者たちを恐れながら自分たちの力で生きていくのしかないのだと、誰もが認めざるを得ない状況になってしまったのだ。


 「まるでゾンビ映画の終末世界みたいだな」


 まるでというより、映画の終末世界そのものであるのかもしれない。それが、今この世界を取り巻いている現状なのだ。

 そうなれば、重要になってくるのは動く死者達に関する知識だ。

 幸いネット上では、世界各国の政府や有志の研究機関によって調査された動く死者に関する情報が数多く転がっていた。その中から信用できそうなものをピックアップしていき、情報を整理していく。


 「シュクシャ、か」


 "シュクシャ"

 動き回る死者達は、そう呼称されているらしい。勿論、単にゾンビと呼ぶ人もいるようだが、ネット上ではシュクシャという呼び方が主流のようだ。その語源は、寄生生物に寄生された生き物を意味する"宿主しゅくしゅ"からきているのだという。何故そんな呼称がつけられたのかといえば、死者が動いて人に襲いかかる原因が、寄生虫に寄生されているからだというのだ。

 全長1ミリに満たない、新種の小さな寄生虫。それが、今世界を混乱に陥れている原因だという。それに寄生された者は命を落とし、人に襲いかかるシュクシャとなるのだ。

 寄生虫に寄生されるのを防ぐためには、シュクシャとの接触を避ける必要がある。何故なら、寄生されてしまう唯一の原因というのが……

 

 「シュクシャに、噛まれること……」


 自分の顔が青くなるのを感じた。

 正確には、シュクシャの体液を体に取り入れてしまうのがまずいらしく、血液や唾液が目や口に入るのも危険らしい。

 噛まれた場合はその傷口からシュクシャの唾液が入り込んでしまっているので、完全にアウトだというのだ。

 寄生虫に寄生された人間は早い人だと数分、長い人でも数時間後には必ず意識を失い、そのまま死に至るという。そして、その後再び目を覚ました時にはシュクシャ達の仲間入りをしているというのだ。その症状に例外はなく、噛まれても無事だった人間は今のところ確認されていないらしい。


 「で、でも、俺は……」


 俺も確かに、シュクシャであろう男に噛まれて意識を失った。だが、その後もこうして無事に目を覚ましている。

 俺は噛まれても助かることができた稀有な例なのか?

 ただ、消えた左手の傷や突然変わった体付きのことを考えれば、体に何らかの異常が起きているのは明らかだ。だとすれば、あの時意識を失ったのは寄生虫とは無関係で、これからその時が訪れるとでもいうのだろうか。


 「くそっ!分かんねぇ!分かんねぇよ……」


 もしかしたらこの後再び意識を失い、シュクシャの仲間入りを果たしてしまう時が来るのかもしれない。

 そんな恐怖に苛まれながら、俺は頭を抱えてただ床を見つめ続けていた。


 

 

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