体売りの処女

ケイホー

第1話 小説家

都会の喧噪が耳をつんざく。男は何十年も聞き慣れたその音にイライラしつつ枝の様に細くなった指が持つ万年筆をせわしなく動かす。動く、動く、早く動かす。そう自分に言い聞かせながらも彼はすぐにその筆を置いてしまい、書いていた原稿をクシャクシャと破り捨て飲んでいたコーヒーをグビッと飲み干した。からになった陶器のコップには茶渋が付いていた。




「何について書いたら良いのか、、、」




小説家とは仲良くやりつつも最大にして最悪の敵であるもの、それがネタ切れである。そりゃそうだ、こちとら何十年も小説家をやっているのだ、幾度となく締め切りに終われ自分の尻を叩きながらでも面白いネタを考え続けた。異世界転生系や根性スポーツもの、それに小難しい文学から子供向けの絵本もだ。様々なジャンルについて書いたのだが、それでも編集者は新しい物を書けと説教をたれてくる。還暦を過ぎた老人を労らないとは、今の若者はだめだ、、、と自分が若い頃散々言われてきた大嫌いな言葉をつい口にしてしまった。そうだ、私は沢山のジャンルについて小説を書いてきたのだ。全てと言っても良いほどに。




いや、しかし、一つ、一つだけ書いていない題材はある。正確に言えば書きたくなかったものではある。そしてそれは私が大の苦手なもので大嫌いなものなのだが。




その様に考えている最中にドアをノックする音が2回聞こえた。ノックの回数からして妻の美代子みよこだろうと思い音のする方へ振り返った。


「あなた、コーヒーを忘れていますよ。仕事中はいつも飲むんでしょ。」




「ああ、、、そうだったけな。ごめんね、忘れていたよ。」


微笑む妻から熱いコーヒーを受け取ろうとする。




「あら、そのコップは何ですか。」と妻が机のコップを指さした。




「ああ、、、これは、、、その、、花に水をやるためにな、水をくんでいたんだよ。」




「ふふ、お花に水をやるにはスコップが必要じゃないですの。」




「ああ、、、うん全くもってその通りだよ。はは、下げておいてくれないかな。」




「分かりましたわ。お仕事頑張ってくださいね。」


そう言うと彼女は茶渋のついたカップをもってそそくさと出て行った。




熱々のコーヒーを机におきながら大きくため息をついてしまう。




「どんどん、症状が悪化しているな、、」




彼女は数年前から認知症を患っている。最初のうちは名前が出てこないとか何を買うか忘れたなど高齢者にとってはありがちなものであった。しかし、次第にほんの数分前の出来事でさえも忘れるようになってしまった。今だってついさっき彼女がコーヒーカップを持ってきてくれたばかりなのに、これで四杯目だ。いやはや、そもそもスコップじゃなくてじょうろだろうし。




少しは強く当たっても良いかもしれない。そんな思いが脳裏によぎる。しかし、私は妻に、いや女性に自分の気持ちを伝えるのは苦手なのだ。若い頃からずっと私が尻に敷かれてきた。彼女の機嫌が悪いときでもいつも私が謝ってしまう。女性に対して、強く向き合うことが大の苦手なのだ。




そしてそうなってくると日常生活で支障をきたすものが一つ出てくるのだが。そしてそれこそが私が最も


書きたくないジャンルの物である、、、。




また、そんなことを考えていたら今度はどたどたと一気に階段を駆け上がると同時にドアを6回もノックする音が聞こえた。こんな騒がしいノックをするような人物と言えば、、


「こんにちは、藤堂先生!調子はどうですか!」とけたたましい声を荒げながらがたいの良い長身の男が入ってくるやいなやお構いなしにずかずかと近づいてくる。




「浩二こうじ君、いつもいっているじゃないか。もう少し静かに来ておくれ。そして、『調子はいかかですか』という方が適しているのだよ。君はいつも日本語がおかしいな、よく編集者になれたものだよ」




つい私は先のイライラをぶつけるために彼、つまり私の編集担当に対して強く当たった。私の編集は先月変わったばかりで彼との距離感は未だつかめない。そして私はこの男のことが大嫌いだ。




「そんな堅いこと言わずに先生!ところで先生!作品の進捗はどうですか。何か思い浮かばれましたかね。沢山のファンが先生の最新作に期待しているのですよ!」




「うん、ありがとう、確かにね。ファンと同時に君は得られるであろう大金を一番期待しているんだろうね。」




「またまた先生、そんな皮肉っぽい事言わんとってくださいよ!」




「これは皮肉なんだが。」




「いや~~~これは一本取られましたね!でも、そんなことより先生!前々から思っていたんですけどなんで先生はわざわざ紙に小説を書いているのですか。今じゃ音声入力が主流なのに、、。しかも先生が若い時代でも、あの、何でしたっけ、World?でしたっけ。」




「Wordだ。」




「そう!それです!そんな当時で言ったらかなり便利なものが昔からあったのになんで先生はずっと手書きなんですか。」




私は答えない。こんなぶしつけで大嫌いな者には答えたくない。人のセンシティブな所にでも好奇心が勝ってしまう。きっと、距離を近づけたいのだろうが、ますます遠ざかっていくだけだ。


互いにしばらく無言が続く。、、はずであった。何か彼は深く息をつくと神妙な面持ちで話し始めた。




「先生。僕、このまえ彼女が出来たんですよ。なのでですね、やはり一彼氏というか、男というか、何でしょうか。やはり彼女の支えとしてですね、お金を稼がなきゃダメなんでよ。」とはははと笑いながら言いきってしまった。




すぐに私の前ではまずいと気づいたのであろうか、私の顔をゆっくりと見ながら機嫌を伺おうとしていた。さながら、その顔は熊に出くわして逃げるようなときのものであった。いや、その時の私が熊のようなものだったかは置いといて。




「、、、、君は引き継ぎから聞いていないのかな。」




「ええ!ああ!すいませんでした、先生!こういった恋愛関係の話は先生にとってタブーという事は知っています!つい口が滑ったというか、なんと言いますか、、、。」




「知っています、ではなくて『存じ上げております』だ。」




「そうですよね!あはは、、、」と心配そうに私の顔を見ている。焦りがこちらまで伝わってきそうだ。




はあ、ついにこの男は最も私が大事にしている場所に踏み込んできた。私はこの世の中で女性の気持ちを伺い続けながらご機嫌取りをするという馬鹿げた行為、常に男が下に見られるという恋愛が大嫌いなのだ。そしてその話題を私の前で話すやつ、そいつはもっと嫌いだ。なおかつその話を私の前でするとその者は永久に日の目を浴びないとか。




こう言った禁忌はよくある物だが、同じ作家同士だけではなく編集者、ファンでもそうでないものも認知症の妻でさえも皆知っている。でも、それがなぜだか聞かない。なぜなら暗黙の了解だからだ。当たり前である。それなのに、この男は平気でずかずかと私の下へと土足で上がってくる。ああ、大嫌いだ。すると、その男はまたもや口を開いた。




「でも、先生!先生は恋愛が苦手なのにどうしてご結婚なされたのですか。」




「んんああ!!!!うるさい!うるさい!私は君の事が大嫌いだ!!。もの凄く嫌いだ!!君はこのままだと彼女と共に一生おんぼろアパートに住むことになるぞ。」普段声を荒げない私も流石に脅し文句を言ってしまった。




「ええ!先生!そんな事を言わないでくださいよ。先生が実際にそんなことしないって僕分かってますから~~。」




「ぐぅ、、、、、」怒りが火山のようにぼこぼこと湧きすぎてもはや声に出ない。




「先生!今日の所はお怒りの様子なので僕は帰らさせてもらいます。怒らせてすいませんでした。でも、一つだけ言いたいことがあって。こういった恋愛をタブーとしている先生が恋愛文学を書いたらきっとベストセラー間違いないと思うんですよ!僕はそう思います。ということで本日はありがとうございました!」




そう言うと彼は来たときと同じように階段をドタドタと降りていった。息を思いっきり吐きながら、頭をかきむしる。ぽろぽろと落ちるふけに自分が年をとったことを嫌でも思い知らされる。そしてそれと同時にあの思い出ももう遙か遠くの話であることさえも実感した。一度も忘れることがない。あの思い出を。




「私は書くべきなのだろうか。ずっと避けてきたあのことを。教えてくれないか、私に。」


ふとつぶやいた時に、またもやドアをノックする音が2回聞こえた。




「あなた、コーヒーを忘れていますよ。仕事中はいつも飲むんでしょ。」




「美代子、私は恋愛を書いても良いだろうか。」




「あら、あなたがそのような事をいうなんて珍しいですね。」




「ははそうだね。、、、で、美代子はどう思う。」




「私は、、、そうね。書いたら良いんじゃないですか。きっとファンの方々も驚きますよ。」




「なら君は許してくれるか。」




「はい?何をいっているのですか、ああフィクションでしょう。何も怒る事なんてありませんよ。あ、私との日々を書くつもりですか。いいですよ全然。」




「俺は、、、」




「私はあなたの作品であれば何でも良いと思いますよ。ふふ、ここにコーヒー置いておきますね。あら、このコーヒーは何かしら。」




「、、、、、」




「何でしょうねこれは、私が持っておりますね。」


そういうと中身の入ったコーヒーカップをもって又既視感のあるような歩き方ですたすたと出て行った。








「俺は書くべきなのか。ずっとさけてきたのに。なあ、教えてくれよ、俺に。」


そうして俺は窓から入る太陽光に掴んだ筆をかざしたのだ。

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