5
チャイムで目を覚ますと、くらげの顔が視界に飛び込んできた。
驚きながらぎくしゃくと起き上がると肩から何かが滑り落ちた。
見ると俺の長袖ジャージだった。一昨日くらいから貸したままの。
隣で寝転ぶくらげが寒そうに見えてジャージを被せた。
状況から、くらげがここで寝ている俺にジャージを掛けて、その隣でくらげも寝ていたのだろう。
教室は思ったより冷えていて俺は窓を少し開けた。外から部活動をしている生徒の姿が見えた。
「……寝過ぎた」
ここに来たのは二限と三限の間だ。
今が四時前だから五時間は寝ていた事になる。寝過ぎで頭が重く、昼を食べ損ねたせいで腹が減っていた。
放り出していた鞄を取って隙間を開けた窓の下で潰れたパンを食べる。
昼飯にパンを買ったのをすっかり忘れていた。
そういえばくらげが来たのはいつだろうと思った。
全然気が付かずに寝ていた。今日は俺の方がくらげみたいだ。
教室で寝て、ジャージを掛けてもらう。
ジャージは俺のだけど。などと考えている内に段々と眠気もとれて腹も満たされた。
眠る前の息苦しさは消えていた。
ふと、くらげが授業を抜けてまでここへ来るのはどうしてだろうと思った。
くらげの息苦しさは何だろう。
他の人にそうしているのと同じように、くらげの事はあんまり、知らない。
空き教室で海月を飼ってる変な女の子で、心臓が弱くて、基本は真面目で、とてもゆっくりと言葉を話す。それだけ。
それでも、最近のくらげはどこかが変な気がした。
特に海月が死んでからのくらげは、消えそうに見える。
「最近寝てる事多いけど?」
目を覚ましたくらげと一言二言会話した後聞いてみた。くらげはまだ眠そうで座っている体が揺れている。
「家で、あんま、り、眠、れ、なくて」
くらげは寝ぼけ眼を擦って小さく欠伸した。いつものくらげのように真っ直ぐ俺を見た。
「海月、見てた、ら、眠れる、の」
最近、家がうるさいの、とくらげは言った。
何でと聞くと首を振って答えない。分からない、か、言いたくない、か。
「いつも、同、じ。お父、さん、も、お母さ、ん、も、私、に、生きて、て、欲しい、のか、欲しく、ない、のか、分から、な、い」
「……くらげは?」
「どっち、でも、いい。海月が、生き、てた、ら」
そう言ってくらげはまたごろんと床に寝転んだ。
水槽の横に置いたデスクライトの明かりを点けた。水槽の周りだけ眩しくなる。
水槽横のデスクライトは大体くらげが点けていた。
もともと海月を見に来ているのではなかったので俺しか教室にいない時はライトを点けない事の方が多い。
今日は俺が先に来ていたので点けていなかった。くらげはこのライトを点けたがる。
その方が海月の姿ははっきり見えるが明るさの調整が出来ないので結構眩しい。
それなのにくらげはライトを点けたままその前で寝るのだった。
普段は点けっぱなしだが時々寝にくそうにしているので明かりを消してやる。起きるとまた点ける。それが常だった。
「海月は、死んだら、溶けちゃう、の。いい、な、あ。人間も、溶けちゃえれば、いい、のに、ね。不純物が、多い、もの、ね」
不意に、くらげがぽつりと言った。
「焼かれ、ちゃう、ね。人間、だと」
残ってしまうから。
わざわざお金を出して焼いて貰って、燃えかすを拾って持ち帰って、その後は知らないけれども。
「変……だ、ね。残、る、のが、恐い、の、かな」
「くらげが、溶けたとしても、水槽は残るよ」
なぜか言葉を出すのが難しかった。俺までゆっくりの話し方になった。
「そう、かも。て、言う、か、溶けない、よ?」
「ああそう」
溜息を吐く。
くらげは話している内にまた眠たくなってきたのか、口を閉ざした。それきり何も言わなくなった背を見つめた。
あと一匹の海月はいつ死ぬのだろう、と思った。
放課後、くらげは教室に入って来て早々に水槽の前で寝転がった。
「またあんまり眠れてねえの」
俺の言葉に対して、くらげは呻きに似た声を返した。伸ばした腕でライトを点けてこちらを振り返りもしない。十分もすると微かな寝息が聞こえた。
最近のくらげは、教室に来ては、寝ていた。ほぼ寝る為に来ているのではと思うほど。
おかげで俺がくらげの代わりに海月の世話をする事がほとんどになった。
くらげはほとんど海月を見ていない。
最近のくらげだって、海月に生きてて欲しいのかどうか、分からない。
適当に放り出しているように見える。
相変わらず外は九月に入ったのに、残暑なんて言葉が似合わないくらい暑かった。
蝉はさすがにもう死に絶えたようだったが。文化祭や近くの大会に向けて部活動の生徒が残る校舎内は夏休み以上に活気があった。
それでもここはやっぱり喧騒が遠く、静かだ。
多分、校内のどこよりも。
変わった事変わらない事はその程度で、くらげの変化も五月病のようなものだと良い。とこの間からここに来る度漠然と考えている。
最近ではくらげと話す事もあんまりなくなった。と言うよりも話す隙間がなかった。
何とか教室に来てすぐのくらげに話し掛けてはみるもののほとんど返事もなく寝てしまう。
居心地の良さは変わらないが本当にする事もなかった。
それでもここに来て、仕方がないから片隅に寄せてあった椅子を一脚引っ張り出して来て、適当な恰好で座って遠くのざわめきを聴いていたりくらげの背越しに海月を見ていたりした。
これは案外、退屈じゃない。
海月を見ていたのかくらげを見ていたのかは自分でも分からなかった。多分両方だろう。
この調子が二週続くと、寝ているくらげを見ている事はあまりしなくなった。
したくなくなった。
微かな寝息しか立てずほぼ身じろぎもしないくらげがいかにも死にそうな人に見えるようになったから。
そんな事はないと分かっていても。
海月と一緒に溶けそうな気がしていた。
教室へは見張りに来るような気分だった。『くらげ』が溶けだしていないか。
海月が死ぬまで後どのくらいだろうか。
何となく、海月が死んだらくらげも死ぬ気がしていた。
寝ているくらげより、起きて意味の分からない事を鈍い口調で話すくらげの方がまだましだった。
ほんの少し苛つくだけで済んだ。寝ているくらげは、怖い。
こんな気分にはなりたくなかった。
酷い気分だ。
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