第86話 決着

 真里菜が動くと共に、ロザリーも応戦する。

 お互いにひたすら攻撃を繰り出しながら、しかしそのどれもが決定的な一打にはならない――そんな、繰り返し続けるだけの攻防が延々と続いていた。

 息をすることさえ忘れてしまうかのように、試合を見ることに没頭してしまう。

 そのくらいに、僕は真里菜とロザリーの試合に魅入っていた。


「はぁぁぁぁっ!!」


「しゃぁぁぁぁっ!!」


 ロザリーの襟を引き、袖口を握り、真里菜が背負い投げを仕掛ける。

 しかしロザリーはその袖口を思い切り引いて外し、そのまま逆に足を払ってくる。

 さらに真里菜はそれに反応し、払ってきた足を引いてロザリーの体勢を崩す。

 けれどロザリーは倒れることなく、大地に根が生えたかのように真里菜の攻撃をいなす。


 少しでも油断すれば、その瞬間に投げ飛ばされる――そんな攻防だ。

 僕だけでなく、周りで見ている柔道部の部員でさえ、言葉を失っている。全国大会常連であり、昨年の優勝校である栄玉学園の柔道部員でさえ、このレベルの戦いには見入ってしまうのだろう。

 テレビで見たことのある、オリンピックでの試合とは全然違う。

 目の前で、汗を弾きながら戦うその姿は。

 これほど、美しいのか。


「待てっ!」


「ぜ、ぇっ……!」


「はぁ……はぁ……!」


「はじめっ!」


 時間は、残り二十秒。

 五分間と設定されていた時間は、もう僅かだ。

 現在は、ロザリーに『技あり』が一つ。逆に、真里菜の方には何のポイントもない。

 あと二十秒でロザリーを投げなければ、真里菜はこのまま負けてしまうということだ。


「真里菜ぁぁぁぁっ!!」


 だから、自然と。

 僕は、心の底から、そう声を出していた。

 普段は、こんな風に大声を出すことなんてないのに。

 だけれど、少しでも。

 僕の言葉が、真里菜のやる気に繋がるのならば。


「頑張れぇぇぇぇぇっ!!」


 襟と袖を握って、膠着したままの二人。

 僕の声援を皮切りにしてか、周りの柔道部員たちも、思い出したかのように声援を送る。


「真里菜先輩ぃぃぃぃっ!!」


「ふぁいとぉぉぉぉぉっ!!」


「投げ飛ばしてくださいぃぃぃぃっ!!」


「いっけぇぇぇぇぇっ!!」


 僕もせめて、残る二十秒。

 真里菜の勝利を祈って、叫ぶ。


 僕は今まで、こんな風に真剣にスポーツを見たことがなかった。

 オリンピックを見ても、プロ野球を見ても、こんな風に真剣に応援をしたことなんてなかった。

 父さんがたまにテレビ中継で野球を見ながら喜んでいたのも、意味が分からなかった。

 だけれど、今は分かる。

 本当に応援している相手が、こんな風に全力で戦っているのだ。


 僕だって、一緒に戦いたい――そんな感情が、僕の心の中を占めていた。


「や、ぁぁぁぁぁっ!!」


 時計の針は、残酷だ。

 どれほど祈っても、どれほど応援しても、無情に時間というものは去ってゆく。

 残り時間が僅かであるがゆえに、防御に徹するロザリーと、その鉄壁をこじ開けようとする真里菜。しかし、雑な技では即座にロザリーの反撃が襲ってくる――そんな、高度な読み合いだ。

 そして、実力が拮抗している相手に、防御に専念されては。

 真里菜が付け入る隙は、どこにもない。


「頑張れぇぇぇぇぇっ!!」


 喉の奥が引きちぎれそうなくらいに、必死に叫ぶ。

 何か、何かないか。言葉だけで、真里菜の力になるようなことは。

 残り十秒ーー時計の針がそこに至った瞬間。

 僕は、もう何も考えずに。ただ、少しでも真里菜の力になればいいと。


 叫んだ。


「今夜はハンバーグ、二枚重ねだぁぁぁぁぁっ!!」


「――っ!」


 その瞬間、明らかに。

 真里菜の動きが――変わった。


 幾重にも積み上げられていた、ロザリーの防御。

 まるでそこに、針の間を通すかのように、するりと真里菜の体がロザリーの懐へと入る。

 襟は外され、真里菜が掴んでいるのは袖口のみ。

 されど、腕一本あればそれでいい、とばかりに。


「は、ぁぁぁぁっ!!!」


「――っ!!」


 雄叫びと共に、真里菜の腰が跳ね上がる。

 それと共にロザリーの足が、その根を抜かれるかのように。

 飛び上がった。


 空中で一回転して、背中からロザリーが畳に叩きつけられる。

 鮮やかな一本背負い――それが、ロザリーに引導を告げた。


 数瞬、時間が止まったような感覚。


「は、ぁっ……」


「……」


「い……」


 審判の内川さんが、僅かに身じろぎして。

 それから、ようやく自分の仕事を思い出したかのように、高らかに手を上げた。


「い、一本っ! それまでっ!」


 それは、試合が終わった証。

 真里菜が勝利したという、結果だ。


 ロザリーは信じられない、とばかりに目を見開いて天井を仰ぎ。

 真里菜も体力は限界とばかりに、顔を伏せた。

 それでも、これで、試合は終わったのだ。

 真里菜が、勝利を讃えられて。


「やったぁぁぁぁぁぁっ!!」


「真里菜先輩ぃぃぃぃぃっ!!」


 ふぅっ、と真里菜が大きく息を吐く。

 そして、薄くふっと微笑んで、僕を見た。

 その唇から紡がれるのは、勝利を示す言葉か。それとも、感謝の言葉か。

 僕なんて、何もしていないけれど。


「武人」


「うん……?」


 え。

 あれ、柔道の試合って、最後に礼をしなきゃいけないんじゃないのかな。

 でもロザリーは倒れたままだし、真里菜は僕を見てるし。


 そして、見事勝利をおさめた真里菜の唇が発したのは。

 実に、彼女らしい言葉だった。


「ハンバーグにはチーズを乗せることを所望します」


「……」


「チーズインならなおよし、です」


「……あ、うん」


 うん、とりあえず。

 僕は、帰り道でチーズを買っておけばいいんだね。

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