第85話 決戦

「互いに、礼!」


 武道場の中央で、柔道着姿の二人がそれぞれ頭を下げる。

 柔道というのは、礼に始まり礼に終わるのだという。それは長い年月を経て、現在に至ってはオリンピック種目として世界的にもメジャーなスポーツとなりながらも、失われていない古来からの礼儀の心ということだろう。

 でも一つだけ、僕の知っている柔道と違うこと。


 それは、片方――ロザリー・ラコートの柔道着が、青いことだ。


 オリンピックで、遠目にもどちらの選手であるのかということが分かりやすくするための、色付き道着である。

 以前聞いた話では、本来柔道着の白という色は、清廉潔白な心を示すものだという。だというのに、国際大会においてカラー柔道着の使用が推奨されたのは、ひとえにヨーロッパ側の意見が多かったからなのだそうだ。

 まぁ、野球とかサッカーとか、そういうスポーツでも同じ色での戦いってほとんどないし。あくまで素人の僕から意見を述べるなら、遠目で見て分かりやすい方がいいよね。


「はじめ!」


 そして、審判として中央にいる内川さんがそう開始の言葉を告げる。

 本来、第三者が審判をすべきなのだろうけれど、いかんせんここは栄玉学園の柔道場だ。第三者なんて、僕しかいない。そして僕に審判ができるかと言われると、そんなわけがないのだ。

 結果、「絶対に不正はしないっす。公平にジャッジするっす」と主張した内川さんが、審判の席につくことになった。


「はぁぁぁぁっ!!」


「しゃぁぁぁぁっ!!」


 二人がそれぞれ、気合の叫びと共に動く。

 最初は掴みあうことなく、僅かに距離をとっての睨み合いだ。背丈はそれほど変わりないが、手足は明らかにロザリーの方が長い。真里菜にしてみても、そう簡単に襟と袖を取られるわけにはいかないということだろう。

 ボクシングのジャブが放たれるみたいに、どちらも牽制のように襟を取りに行くけれど、簡単にそれを許してはくれない。


 恐らく、この攻防もまた僕なんかでは分からないくらいに、高次元の読み合いがあるのだろう。

 僕はただ、信じるだけだ。この戦いで、真里菜が勝利してくれることを。


「はぁっ!!」


 そんな中、最初に動いたのは。

 ロザリー、だった。


「うっ……!」


「しゃぁぁぁぁぁっ!!」


 長い腕と、それに伴う鍛えた腕力。

 それを用いて、真里菜の右襟を取る。そして鍛えた手首リストを捻り、真里菜の体勢を崩してゆく。

 だが、それで簡単に崩される真里菜というわけでもない。代わりに真里菜もまた、ロザリーの腕の外側からロザリーの左襟を取る。お互いに片手で襟を取り合いながら、もう片手で攻め手を探す、といった形だ。

 真里菜は左組み、ロザリーは右組み。いわゆる、ケンカ四つという組み方である。

 現状不利なのは、外側から襟をとっている真里菜だろうか。


 互いに襟をとっている逆の足を下げているから、簡単に袖を取ることができない。

 じりじりと体力を削ってゆく睨み合いと共に、時間ばかりが過ぎる。

 僅かにでも隙を見せた方が負け――それが、僕にも分かるくらいに、真剣な表情で睨み合い続ける。


「はぁっ!」


 そこで、ロザリーが膠着を破る。

 長い足で刈るかのような、鋭い足払いが、真里菜の脛へと当てられる。


「うっ……!」


 まるでローキックのようなそれに、顔を歪ませる真里菜。

 柔能く剛を制す――それが柔道の基本理念であるけれど、どうしても力というのは必要となる。ロザリーはそれだけの力を、あの細身ながら兼ね備えているのだ。

 そして、僅かに体勢を崩した真里菜の袖口を、ロザリーが素早く握る。


「――っ!!」


「しゃぁっ!」


 それは、真里菜にできた一瞬の隙――それを逃すことなく、ロザリーが動く。

 襟を持った腕で、真里菜の体を引き付けて。

 ひゅんっ――と、風を切る音。


「う――ッ!」


 ロザリーの長い足が跳ね上がり、真里菜を捕らえる。腰の上に乗っているかのような真里菜を、ロザリーの右足は正確に刈った。

 鋭い内股。

 真里菜の体が、空を舞う。そのまま、真里菜は背中から落ち――。


「くっ!」


 ――ない。

 なんとか空中で体勢を変えて、体の側面から落ちるように無理やり崩した。だがそれでも、倒れたこと――投げられたことは違わない。


「技あり!」


 状況から、そう判断を下す内川さん。

 柔道における判定は『一本』『技あり』『有効』のいずれかだ。そして、どのような基準であるか、というのは規定で決まっている。

 一本は、『技を掛けるか、または相手の技を外して、相当の勢いあるいは弾みで、だいたい仰向けに倒したとき』、だ。かなりアバウトな規定である。

 次に技ありは、『完全に「一本」とは認めがたいが、今少しで「一本」となるような技のあったとき』、有効は『「技あり」とは認めがたいが、今少しで「技あり」となるような技のあったとき』である。

 先程の攻防は、まず背中からではなく側面――それも、肩先から落ちるようにしていた。それを考えると、それだけ一本を阻む余地のある技だったということだ。しかし勢いは良く、技はしっかり決まっていた。だからこそ、技あり判定としたのだろう。

 投げられた真里菜は体を固め、寝技に備える。逆にロザリーは、その上に被さって寝技へ持っていこう、と繰り出す。

 その攻防が暫し続き、ロザリーが攻めあぐね、真里菜が耐えているのを見て。


「待て!」


 そう、試合が中断する。

 これはその状況が時間をかけても変わらないであろう状態で、審判が一時的に試合を中断するものだ。

 ロザリーも真里菜も、少しだけ息を荒げながら立ち上がる。

 現在はロザリーが、技あり一つだけリードしている状態だ。


「はじめ!」


 そして、再度組み合う二人。

 今度はすぐに技に入ることなく、にらみ合う。駆け引きや読み合いといった、精神的な戦いと言えるだろう。

 ロザリーが足を払う動きを、真里菜が回避する。それにより一瞬バランスの崩れたロザリーを、同時に真里菜は立て続けに攻め立てた。

 激しく左右に振り、体勢を崩す。それにより、自分の間合いへ持ってゆき――。


 真里菜の体が、かき消えた。


 その一瞬先に存在するのは、ロザリーの真下。それはまるで、お手本にしたいような背負い投げだ。体を小さく丸め、懐に入り、飛び上がるような動作で投げる。


「くぅっ!」


 だけれど、それもロザリーには通じない。

 確実に決まっている背負い投げを、どうにか片足で踏ん張って耐える。まるでケンケンをしながら耐えているような状態。

 完全にバランスが崩れているというのに、倒れない。

 そのまま、その足が場外線を割った。


「待て!」


 制止と共に、二人は開始線に戻る。

 肩を揺らしながら、息を切らしながら、それでも闘志をぶつけ合って。


「はぁ……はぁ……」


「やり、マス……」


 そんな、二人の。

 現在、世界でも最高のレベルに達しているであろう戦いを、見ながら。


「すごい……」


 僕は、ただ。

 そのレベルの高さに、感動していた。

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