第83話 11月22日

「さて、それでは武人。行きましょう」


「うん」


 時間というのは経つのも随分と早いもので。

 今日は11月22日の金曜日。そして、明日は真里菜が出場する全国高校柔道大会、インターハイ予選である。なんだかんだ、僕も毎日真里菜の食事を用意しながら日々を過ごしつつ、気付けば明日まで迫ってきていた。

 まぁ、僕にできることなんて僅かなものだ。実際に戦うのは真里菜一人であるため、少しでも真里菜がリラックスして試合に臨めるように、消化のいい夕食を用意するくらいしかできない。


 そして、今日も授業が終わると共に、真里菜の方からそう声をかけてきた。

 普段は突っ伏して寝ているから、僕の方から起こしに行くんだけどね。今日は睡眠欲に負けなかったらしい。

 ちなみに、僕と真里菜は学校内ではもう公認カップルみたいになってるから、周りも別に冷やかしたりはしてこない。一部の熱狂的な男子生徒には殺意のこもった目で睨まれることがあるのだけれど、さすがに実行に移すほど常識のない生徒はいなかったようだ。


「ついに明日だね」


「はい。今日の練習は軽めに済ませるつもりです。普段は夜練習に行きますけど、今日のところは休みます」


「さすがに、百人組手とかはもうやめてね……」


「……あれは、その。つい、気分が昂るとやってしまうといいますか」


 つい、百人やっちゃうんだ。それ、凄すぎるんだけど。


「ある種、酔っているような感覚なのかもしれません。肉体の疲労が限界に達しても、心の限界はまだ来ていませんから。精神は肉体を凌駕するというか……あの状態になると、対戦相手しか見えなくなりますし、周りの声も聴こえなくなります。ですので、武人が来ていたことにも気付かなかったのですが……」


「うん。見事に無視されてたもんね」


「……申し訳ありません」


「いや、別に怒ってるわけじゃないから」


 まぁ、心配していたところを物凄く躱された感じはあるけれど、別に怒ってるわけじゃない。

 むしろ、あんな風に無茶な練習を繰り返すことに対する心配の方が強い。僕は早々に帰ったけど、結局は朝方の四時くらいまでやっていたのだとか。

 結果、柔道場の中心で突っ伏してそのまま寝たのだというのだから、女子としての危機感が全くないあたりを僕としては糾弾したいものである。


「試合が終わったら、ゆっくりできるの?」


「……それは、分かりません。ですが、せめて明日の試合が終わって、明後日は武人と二人で過ごせるようにはしたいと思っています」


 教室を出て、武道場までの僅かな道を二人で歩きながら、そう話す。

 僕は帰宅部だからそのまま帰るけれど、真里菜は部活だ。色々と紆余曲折があった結果、僕と真里菜の間にあるルールとして『一緒に帰るのは武道場まで』と決まったのである。

 どちらにしても、八時くらいに真里菜の夕食を作りに行った後は一緒に過ごせるしね。


「別に、無理はしなくていいよ。僕だって、真里菜さんには結果を残してもらいたいから」


「いえ、そういうわけにはいきません」


 僕の言葉に対して、真里菜はそう言って拳を握りしめる。

 このあたり、真里菜って無駄に頑ななんだよね。もう少し柔軟性があってもいいと思うんだけど。柔道だけに。


「私はまだ、武人と恋人らしいことを一つもしていないのですから」


「……そう?」


「はい。私も決して怠けているわけではありません。練習中の休憩時間に、できるだけ知識を得ようと努力しているのです」


「努力の方向性が色々と間違ってると思うんだけど」


 努力するのなら、柔道に関して努力してほしい。女子力はほどほどに。

 まぁ、そんなことを言っても聞いてくれないのは分かってるんだけど。


「まず、武人」


「うん」


「私は武人に対して、『かべどん』も『かみくしゃ』も『あごくい』もしていません。これをすると、どうやら胸がキュンとするらしいのです」


「……ええと?」


 なんでそう、偏った知識ばかり仕入れるのだろう。

 いや、僕も詳しい意味をよく知っているわけではないけどさ。でも、さすがに一時あらゆるメディアを虜にした『壁ドン』くらいは知ってる。

 ほら、あれ。壁と自分の間に女の子を置いて、顔の横で壁にドンってするアレ。

 正直、あれされてキュンとくる女子の気持ちが僕には分からない。自分より力の強い相手にアレされると、怖いだけじゃないのかな。


「よく意味は分かりませんでしたが、『かべどん』ならば今すぐにでもできるのかなと思います」


「それは本来僕が……」


「ふむ……このあたりなら良いでしょう」


「……?」


 廊下で、そう言いながら立ち止まる真里菜。

 そして何故か壁をコンコン、と指で弾いた。その仕草に何の意味があるのか僕には分からない。

 いや、今、周りに下校しようとしてる生徒たちでいっぱいなんだけど、なんでここで僕に壁ドンをする必要があるのさ。


 だが、そんな僕の懸念をよそに、真里菜は僕に背を向けたまま。

 一通り、そこにある壁を真里菜なりに分析して。


「ふんっ!!」


 どんっ、と激しい音と共に。

 真里菜の拳が、思い切り壁へと当たった。


「……ふぅ」


「……」


「どうですか武人。キュンと来ましたか」


「ごめん意味が分からない」


 いや、思い切り周りの生徒、あの人何してるんだろって目で見てるよ。

 周りから見れば、突然壁にパンチをかました変な人としか思えないよ。


「では次に、『あごくい』を行いたいと思います」


「僕の顎の骨がマッハで危険だからやめて!」


「大丈夫です、私は関節技を得意としていますので」


「首って人体で一番危険な関節だからね!?」


 その『顎クイ』、下手に受けたら死ぬやつだよ。

 こう、普通は顎をちょっとクイっとやって唇を近付けて迫る、ってやつだよ顎クイ。真里菜の考えてるそれは、多分『顎ボキ』くらいの致命的なやつだと思う。


 そんな風に真里菜の誤解を訂正しつつ。

 気付けば、武道場まで到着していた。


「おっと……名残惜しいですが、ここまでですね。では武人、また夜に」


「うん。今日は何が食べたい?」


「ハンバーグを所望します」


「分かった」


 よし、今日はちょっと豆腐ハンバーグにでも挑戦してみようかな。

 高タンパク低カロリーで、ちゃんと栄養バランスも整っているように。

 と、そんな風に僕が夕食のメニューに思いを馳せていると。


 慌てたような声が、武道場の中から聞こえてきた。


「真里菜先輩っ! よく来てくれたっす!」


「……内川? どうしたのですか」


 武道場から出てきたのは、いつぞやの練習試合で会った『中堅のうっちー』こと内川聡子さんだった。

 何故そこまで焦っているのだろう。


「真里菜先輩に客っす! 私らじゃ、敵わないっす……!」


「……どういうことですか」


「おや。ようやく、来マシタ」


 そんな武道場から、内川さんに続いて出てきたのは。

 きらきらと、陽光に映える金色の髪。


「あなたを待っていマシタ、マリナ・イズミ」


「……あなたは」


 そこにいたのは明日、真里菜が戦うべき相手。

 一度、完膚なきまでに敗北した女性。

 その雪辱を晴らすために、ひたすら努力を重ねた敵。


「わたし、戦うために来タ。さぁ、試合をしまショウ」


 にこりと微笑んだ彼女は。

 聖マリエンヌ女学院柔道部――ロザリー・ラコート。

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