第81話 不安

 おかしい。

 明らかにおかしい。

 何をどう考えてもおかしい。


 真里菜の部屋で、既に二十三時半を回った時計を見ながら、そう思う。

 二十時に練習は終わるはずだ。そして今まで、その後の夜間練習にまで参加したことはない。

 一応、夜間練習に参加した場合、その終了時刻は二十三時だ。もしかすると、二十時までの練習では若干物足りないとでも思ったのだろうかと考えて、そのまま夜間練習にも参加したのかもしれない。僕に何も言わずに参加するというのは奇妙に思えるけれど、基本的にマイペースな真里菜ならありえるかな、と考えたのだ。そもそも真里菜は携帯電話を持ってないから、僕に連絡する手段がないし。

 そもそも一人暮らしを始める妹に、携帯電話すら買ってあげない梨央奈さんってどうなんだろう。いざというときの連絡手段がないと、色々困るのではなかろうか。今みたいに。


「うーん……」


 さすがに、これ以上は僕も待てない。

 心配にはなってくるけど、僕も僕の生活があるのだ。遅くとも日が変わるまでには寝ないと、明日の朝起きられないだろう。まぁ、僕のことだから多分起きると思うけど。アラームが鳴らなくても四時半に起きてしまう僕である。

 それでも睡眠不足であることには変わりないのだ。そして明日はテスト二日目であり、睡眠不足で挑んでいいものではない。

 そもそも、真里菜に夕食を提供したら、家に帰って勉強するつもりだったのに。


「どうしよう……」


 真里菜の部屋は、『柔道に集中するために』ということを前提に作られたものだ。だから、そこに娯楽の類は何一つない。

 本は教科書すら置かれていないし、テレビもラジオもない。僕は仕方なく、スマホの画面で明日のテストのための勉強をしながら時間を潰すだけだ。娯楽品の代わりに置かれている、潤沢なウェイトトレーニング器具は僕に用のない代物である。

 そんな部屋でじっと家主の帰りを待ち続けるというのも、困るものだ。


「……何か、あったのかな?」


 普段、参加しない夜間練習――それに参加したのだろうと、思う。

 そうでなければ、真里菜は真っ直ぐ帰ってくるはずだ。僕が夕食を作っていると、ちゃんと分かっているのだから。真里菜は決して僕を蔑ろにしていないし、いつも食事を作ることに感謝してくれている。

 だけれど同時に、思ってしまうのだ。

 本当に、夜間練習に参加したのだろうか。僕が二十時半には夕食を提供できるように準備していると分かっていながら、マイペースに夜間練習へ参加したのだろうか。

 責任感の強い真里菜が、僕が家で待っていると――そう分かっていながら。


「……」


 なら、帰り道で何かあったのかもしれない。

 夜間練習から徒歩で帰っている真里菜だ。少なくとも、交通機関での足止めなどはないはずだ。

 ならば、もしかすると。


 事故にでも、遭ったのではないか――。


「……そんな、まさか」


 ぶるっ、と背筋が震える。

 交通事故というのは、この日本で珍しいことではない。それこそ、日に何人事故を起こしていることか。ニュースで交通事故があった、と報道を受けても、さほど驚かないのが日本人というものである。

 だからこそ、思ってしまう。

 もしかすると、真里菜が帰り道で、事故に――。


 思わず、立ち上がる。

 そんなこと、あるはずがない。そう思うけれど。

 なのに、心に宿る一抹の不安が、どうしても消えてくれないのだ。

 柔道の試合のみならず、日常においても優れている反射神経を持つ真里菜が、交通事故になど遭うはずがない――そう思うのだけれど。

 早く帰ってきてくれれば、そんな僕の不安なんて消え去ってしまうというのに。


「……」


 もう一度、座る。

 大丈夫さ。ちょっと、夜間練習から帰りが遅れているだけさ。

 そう思い込んで、どうにか自分を落ち着かせる。もしも何かあったとしたら、梨央奈さんあたりから僕に連絡が来るだろうし。僕、梨央奈さんの電話番号知らないんだけど。

 そんな連絡もないし、僕が心配するようなことなど、どこにも――。


「――っ!」


 だけれど、突然。

 僕の携帯電話から、初期から全く変えていない着信音が、鳴り響いた。


 画面に映っているのは、11桁の数字だ。

 僕の電話帳に登録していない、知らない番号である。


「……」


 こんな遅くに、知らない番号から電話が来る。

 そんなの、嫌な予感しかしない。僕にとって、望まない報告としか思えない。

 だけれど。

 もしもこれが、本当に僕にとって危急の報告だとするならば。


 出ないと。


「……」


 震える指で、携帯電話の画面をスライドする。

 それと共に、手を震わせながら、携帯電話を耳元にあてて。


「……もしもし」


『武人くん?』


「は、はい……」


『わたし。梨央奈よ』


「……」


 電話の向こうにいる相手は、梨央奈さん。

 僕と電話番号を交換したこともないというのに、何故か掛けてきた。

 それは――僕の番号を調べて、その上で連絡をしなければならないほど、危急の事態ということ。


 聞きたくない。

 そう思いながらも、僕の唇は動いてくれない。

 からからに乾いた口は、何の言葉も紡ぐことなく、梨央奈さんの言葉を待つ。


『あのね、武人くん。申し訳ないんだけど……今日のところは、帰って。今日は、真里菜はそこに帰らないから』


「……」


 何故。

 理由を教えることなく、ただ僕に帰れと言う梨央奈さん。だけれど、僕の唇はぱくぱくと動くだけで、言葉を発さない。

 不安が渦巻いて、一つの波となっているような、そんな感覚だ。

 せめて、何があったのか――。


『大丈夫よ、安心して。事故とか、そういうのじゃないから』


「――っ!」


『ただ……ちょっと、なかなか、わたしにも説明が難しいのよ。どう言えばいいのかしら……』


「真里菜はっ……真里菜は、無事、なんですかっ!」


 ようやく、僕の唇が言葉を取り戻す。

 少なくとも、事故ではない――そう梨央奈さんが言ってくれたことが、一つの安心をもたらした。

 最悪の事態を想定した分、その反動があったのだろう。


『ごめんなさいね、武人くん。わたしも連絡を貰ってから、暫く動けなかったから。こんな風に、遅くなっちゃってごめん』


「どういう……!」


『真里菜は今、警察署にいるわ。わたしも一緒。ちょっと、今日のところは帰れそうにないの。お願い、武人くん。今日のところは……』


 立ち上がり、駆け出す。

 玄関で靴を履く時間すら惜しい。合鍵で鍵を締めることすら放棄したい。

 それくらいに、僕は焦っていた。


 真里菜が警察署にいる――それは、まだ分かる事実である。

 そもそも練習に参加していた先は、警察署だ。そのままずっと練習をしていたとしても、おかしくはない。

 だけれど、おかしいのは――そこに、梨央奈さんがいるということだ。

 何故、そこに梨央奈さんがいるのか。


『た、武人くん?』


「今すぐ行きます!」


『え、えぇ……来ても何も……でも、そっか。若いわねぇ……分かったわ。待ってる』


「はい!」


 梨央奈さんとの通話を切って、真里菜のマンション――その一階に到着する。

 ここから警察署まで、歩いて十五分。

 だけれど、僅かの時間すら惜しく。


 明日のテストとか。

 明日の朝ごはんを作らなきゃいけないとか。

 あまり遅くなると明日の朝がきついとか。

 そんなこと、何一つ考えず。


 僕は、警察署までの道を、全力で走った。

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