第75話 父さんは機嫌が悪い
さて。
僕が真里菜の家にご飯を作りに行く、そんなルーティンが完成して既に二週間。僕もようやく、このスケジュールに慣れてきた。最初は一日に五回も食事を作らなければいけないことに辟易したものだが、案外人間というのは慣れる生き物である。
そんな僕は、今日も今日とて学校を終えて家事をこなし、自宅での夕食作りに励んでいる。いつも通り、千葉家の夕食は午後六時を五分先んじることも後回ることもない。予定通りに米は炊き上がるだろうし、メインとなるクリームシチューもいい感じに煮えている。あとは空いた時間でサラダを作るのと、明日のお弁当用に作り置きしておこうかな、なんて思ったりしつつ手を動かす。
ちなみに、うちの学校もテスト期間に入ったため、真里菜も部活は休みだったりする。
しかし、基本的に毎日柔道の練習しかしていない彼女は、梨央奈さんの送り迎えつきで少し離れた大学に柔道の練習に行っているのだとか。そのため、僕が真里菜の夕食を作る時間はいつも通りである。
時刻は五時半。
亜由美はいつも通りにリビングでゲームをしており、こちらを見向きもしない。まぁ、お皿を並べるときになれば声をかければいいか。
「ただいまー」
「あ、とーちゃんおかえりー」
と、そんな風に玄関から響く声。
いつも通り――とは言いにくい、我が家の大黒柱のお帰りである。具体的に言うなら、父である哲治の帰宅だ。
毎日遅くまで仕事をしているのに、最近は随分と帰りが早い。ここのところは、ちょっと素早く動いて父さんの分を作ってどうにか凌いでいる状態だ。今日も、もしかしたら早く帰ってくるかな、と思って多めにシチューを作っておいたのだ。僕は学習する人間である。
「あー、疲れた。おい武人、ビールあるか?」
「冷蔵庫であと二本冷えてるよ」
「ちっ、二本しかねぇのかよ」
「冷えてないやつなら、あと三本くらいあるけど」
「冷蔵庫入れとけ。気ぃ利かねぇな。しゃーねぇ。冷凍庫ん中で早めに冷やしといてくれ」
「うん」
父さんの言葉に従って、冷蔵庫の外に出してある三本のビールを冷凍庫に入れる。
普段から二本くらいしか飲まないから、今日もそれくらいかと思って冷やしておいたんだけど。どうも今日は飲みたい気分らしい。
まぁ、我が家の大黒柱が飲みたいと仰るのなら、僕にしても別段文句を言うつもりはない。
「とーちゃん、機嫌悪いの?」
「ん……あぁ、そう見えるか?」
「なんか、ピリピリしてる」
「……悪ぃな。ちっと気ぃ張ってるみてぇだわ」
「なんかあったの?」
「おい、そんな簡単に聞くなよ亜由美」
亜由美を、そう嗜める。
父さんの仕事は麻薬取締官であり、本来なら家族にすら職業を黙っておかないといけない人間なのだ。その職務内容となると、僕らのような一般人が聞いてはいけない内容である。
下手なことを聞いて、僕たちが巻き込まれることになってもいけない。それこそ、父さんが最も忌避することである。
「あぁ、別に大したことじゃねぇよ。帰り道で気分が悪ぃことがあっただけだ」
「そうなの?」
「今日は三時に仕事が終わったからな。そのまま直帰したんだよ」
「早かったんだね」
「でけぇ
まぁ、そういう日ってあるよね。
どんな仕事でも、暇なときとそうじゃないときってあると思うし。さすがの父さんでも、毎日毎日潜入ばかりしてるわけじゃないと思う。
僕としては、何事もない平和な仕事の父さんは歓迎すべきことなんだけどさ。
あれ。
でも今、五時半なんだけど。三時に終わったにしては、随分と遅くない?
「とーちゃん、何があったの?」
「亜由美、お前もちゃんと帰り道、気ぃつけろよ。変な奴に何かされそうになったらとーちゃんに言え。そいつを社会的に潰してやるからな」
「父さん、物騒なこと言わないで」
事実、父さんのせいで社会的に死んだ人を一人知ってるんだよ。
僕だって被害者だから同情の気持ちはないけど。
「まぁ、なんだ。帰りに、な」
「うん」
「男四人で女一人を囲んだ奴らを見かけた」
「……うわぁ」
想像するだけで、下種い発想しか思い浮かばない。
女の子一人に、男が四人がかりで囲むなんて余程のことだ。これが男同士なら喧嘩だと思うだろうけど、異性となると意味合いが大きく変わってくる。
どう考えても、無理やりアレやコレやするために囲んでいるとしか思えないだろう。
「どーゆーこと? ケンカ?」
「亜由美はそのままでいてくれな」
「? とーちゃん、どうしたの」
「まぁ、なんだ。ケンカみてぇなもんだ。でもよ、さすがに女一人に男四人ってのは卑怯だろ」
「うーん……さすがに、クラスの男の子四人には勝てないなー」
「そういうこった。か弱い女に対して、四人がかりで襲いかかるなんざ男の恥だ」
「うん! 男らしくないよね!」
亜由美は平和的に考えているようだが、父さんと同じくそのままでいてほしいものである。
中学生とかだと、大人びている面々とかは経験してるのかもしれないけどさ。亜由美も、友達とかにそういう話を聞いたりしないのだろうか。
恐らく、現在名実共に僕の彼女である真里菜も、そのあたりの知識には疎そうである。
「んでだ」
「うん」
「とりあえず、ボコっといた」
「……父さん、さすがに強いね」
「そこらのチンピラなんざ、十人いても負ける気がしねぇよ」
さすがは武闘派の父さんだ。
麻薬取締官というのは潜入捜査が多く、自衛の手段は多ければ多いほど良いため、そういう護身術とかは学んでるとは聞いたけど。
ちなみに父さんは僕の知る限り、空手、柔道、剣道、合気道の全て黒帯であり、サバット、システマ、サンボといった名前すら聞いたこともない格闘術も学んでいるのだとか。一部教えてもらったことはあるけれど、絶望的な僕の運動神経では全くついていけなかった覚えがある。
この場合、父さんが通りがかった不幸な四人に哀悼の意を捧げるべきだろうか。
「まぁ、そいつらをボコって警察に連れていってな。それでちょっと遅くなった」
「そういうのって、暴行になるんじゃないの?」
「先に殴らせたから、正当防衛だ。そのあたりは、被害者の女の子に証言させてな。まぁ二人ほど取り逃がしたが、追ってまで攻撃すると過剰防衛になっからな。残る二人については、ちゃんと捕まえた二人が口割ってくれるのを祈るばかりだ」
「そっか」
まぁ、僕より法律に詳しい父さんだ。下手なことはしないだろう。
「ま、そんな訳で胸糞悪くてな。もしも亜由美が同じ目にあったら、俺ぁ犯人ぶっ殺すかもしれねぇよ」
「……そうならないことを祈りたいね」
「んだな。ま、あの女の子も未遂だったし、問題ねぇだろ。つか、飯まだか? 先にビール飲んでるわ」
冷蔵庫からビールを取り出して、ぷしゅっ、という音と共に飲み始める父さん。
やはり娘を持つ父として、そういう性犯罪は許せない部分があるんだろうな。そりゃ、僕だって許せないけど、実際にそんな現場に遭遇して、僕はまともに動けるのだろうか。
少しくらい、父さんに何か学んだ方がいいのかな。
「あー……しっかし、気分悪ぃなぁ。なんであーいう人種はなくならねぇかね」
「……」
正義感の強い、麻薬取締官の父さん。
でもさ。
その顔でそう言われても、なんとなく説得力ないよ。
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