第74話 日常への回帰

 一ヶ月が、特に何事もなく過ぎていった。


 勿論ながら真里菜は梨央奈さんの用意した部屋に引っ越して、一人暮らしを始めた。それに伴って、僕が真里菜から合鍵を預かって食事の用意をすることになったのも当然の帰結である。

 現在、僕の一日のスケジュールは以下だ。


 四時半 起床。

 五時 真里菜への朝食作り、提供、見送り。

 六時 帰宅し、僕、亜由美、真里菜のお弁当作り。

 七時 僕、亜由美、いれば父さんの朝食作り。

 七時半 登校。真里菜にお弁当を渡す。

 十五時半まで学校。

 十六時 帰宅して掃除、洗濯。

 十七時 僕、亜由美、いれば父さんの夕食作り。

 十八時半 真里菜への夕食作り。

 十九時半 夕食の提供。

 二十時 帰宅。

 そのあとは、就寝まで栄養学の勉強とか受験勉強とか。


 梨央奈さんに言われた通りに、朝食、昼食、夕食をきっちり全部作っている状態だ。実質的な拘束時間は、朝食と夕食を作る際の合計二時間くらいのものである。

 あとは、真里菜が食べている間は一緒にいるようにしているけれど、これは拘束時間というわけではなくて、僕がいたいから一緒にいるだけである。食べ終わったら洗い物もあるし。


「ふー……」


 まぁ、元々家のことばかりやっていたわけだから、特に自分の時間がないことに不満を持っているわけじゃない。ただ、さすがに平日、お菓子作りに充てる時間がなくなったのが悲しい点である。それに対して文句を言う隣の席のアイツもいるが、基本的に無視だ。

 その代わり、土曜日とか日曜日の日中には作るようにしてるけどさ。趣味だからやめられないんだよね。


 そして真里菜の食生活改善は、割と上手くいっている気がする。

 すぐに一気に変えるのではなく、栄養のバランスを考えた上で徐々にシフトしていく形で、高タンパク低カロリーの食材を主に使用しているのだ。

 柔道という瞬発的なパワーの必要となる競技は、筋繊維の損傷が激しくなるのだ。ゆえに、筋肉の超回復を促すような形での、たんぱく質が多い食生活が望ましいとされている。

 でも、かといってたんぱく質ばかり取っていればいいというわけではなく、基本的にはバランス重視だ。主食、主菜、副菜、乳製品、果物の五品から六品を毎食出さなければならないという苦労もあるけれど、これが真里菜の強さに繋がるのならば何よりである。


 そして今日も今日とて、真里菜が食事を完食した後、洗い物をしている最中である。


「武人、いつもありがとうございます」


「あ、うん。大丈夫だよ」


「ですが、疲れている気がします。ちゃんと休めていますか?」


「ちゃんと休んでるよ。真里菜さんは、僕のことなんて気にしないで柔道に専念して」


「……ええ」


 真里菜が、少し心配そうに僕を見てくる。

 別に、それほど心配されるような顔色はしてないと思うんだけど。

 まぁ、確かに少し睡眠不足かな、とは思わないでもない。でも、今まで受験勉強なんて全くする気がなかったから、全然授業についていけてないんだよね。そのあたりの勉強をやってて、ちょっと夜更かししてしまったことは何回かある。


「そういえば、私の進む大学については聞かれましたか?」


「あ、うん。梨央奈さんから聞いたよ。茨城の大学だって」


「はい。大学柔道でも、かなりの強豪校です。一から鍛え直すつもりで入学するつもりです」


「僕も、その近くの大学を受けることにしたんだ。もっとも、僕が受けるのは私大だから、一緒の学校には行けないけどね」


「……そうですか」


 残念そうに、そう顔を伏せる真里菜。

 でも、仕方ないよね。僕が目指すところは管理栄養士だし。

 そして、管理栄養士の修士課程を大学で受けられるのって、私大ばっかりなんだよね。一応、真里菜が行く予定の大学にも『スポーツ栄養学』って過程はあるんだけど、それで何かの資格が得られるのかって言われると違う。

 結局、お金はかかるけど私大に進むしか選択肢がなくなったんだよね。まぁ、うちの貯蓄はまぁまぁあるし、大丈夫だと思う。父さんにも許可得たし。


「ふむ。そうなると、武人も引っ越すことになるのですか」


「うん、そうなると思う」


 さすがに県外の大学だし、実家から通うわけにいかないだろう。

 一応真里菜の食事のお世話で、それなりにお金は貰えるから、生活費くらいはどうにかなると思う。

 学生専用物件とかもあるし。


「武人が出ていって、実家は大丈夫なのですか?」


「……僕もそれが心から心配なんだけどね」


 今まで、家のこと全部やってきたし、多分卒業まで僕はやり続けると思う。

 でもそうなると、僕が出ていった後、亜由美はどうするのだろう。あいつ、料理も掃除も洗濯もしたことないんだよね。

 いつか来る未来のためにも、今から少しずつやらせていくしかないのかもしれない。


「まぁ、今から心配していても仕方ないしさ、どうにか仕込んでいくよ。亜由美だって、さすがに僕がいなくなったら何かやると思うし」


「でしたら良いのですが……私の我儘で、武人を実家から引き離すようなものですから」


「いや、我儘ってわけじゃ……」


「いえ、我儘です。私の都合で、振り回しているようなものです」


「……」


「私は、ご家族に恨まれても仕方がないのかもしれません」


「そんなことは……」


 ない、と思うけど。

 僕だって、いつまでも実家にいるわけじゃないし、いつかは出なきゃいけないと思ってたわけだし。

 そもそも、亜由美が僕に甘えすぎなんだよね。ご飯も掃除も洗濯も、あげく化粧まで僕がやってるんだから。


「ですが、武人」


「うん?」


「引っ越すということは、一人暮らしをするつもりだということですか?」


「あ、うん。そのつもりだけど」


「……ふむ」


 ぽん、と。

 真里菜が何か思いついたように、そう手を打った。


「武人、いいことを思いつきました」


「なんでだろう。僕には悪い予感しかしない」


「問題ありません」


「ちょっと待って。心の準備だけさせて」


 真里菜がそう言ったときって、大抵何か良からぬことしか言わないんだよね。経験則として。

 すー、はー、と深呼吸をしておく。ひとまず、これで問題なく受け入れる準備はできた。

 真里菜がどれほど荒唐無稽なことを言い出そうとも、大丈夫だよ。叫ぶことはないだろう。


「うん、大丈夫。それで、何?」


「高校を卒業したら一緒に暮らしましょう」


 ……。

 …………。

 ………………。


 うん、大丈夫。僕には心の準備ができていた。

 その上で、言葉の裏を読み取るだけの冷静さを持っている。真里菜の短い言葉の中に込められた、その本当の意味について。

 そこに、色気なんてどこにもない。恋人同士の同棲とか、そういうのは一切ない。


「それ完全に生活を僕に任せる気満々だよね」


 僕と一緒に暮らすという提案――その中に込められた意味は。

 掃除も洗濯も料理も、全部僕に任せる、ということである。

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