第60話 閑話:明確な壁

 毎週、月曜から金曜まで朝と放課後に濃密な練習が行われる栄玉学園柔道部に所属する江藤加奈子にとって、土曜日の休みというのは滅多にない。

 週休二日制という学生ならではの特権を持つ代わりに、土曜日は丸一日練習漬けなのである。だからこそ、翌日の日曜日にはほとんど自宅で死んでいるのが加奈子にとって毎週のことだった。

 出かける気も起きることなく、ただ丸一日寝て過ごす――そんな日曜日と違って、普段は練習がある土曜日が休みである今週は、加奈子にとってまともに動ける数少ない休日である。


 だからこそ、加奈子は唐突に千葉武人の家を訪れて、そのまま無理矢理に連れ出したのだ。


「ま、真里菜さんは、どうしてここに……?」


「ああ、私のランニングコースなもので。私の自宅からこのあたりまで走って、そのまま戻るようにしているのです」


「そ、そうなんだ? あれ……家からここまで、割と遠くない?」


「合わせて二十キロといったところでしょうか」


「そんなに走ってるの!?」


 加奈子は、真里菜が明日の練習試合に出場する選手だと知っていた。そして、真里菜も今日練習が休みであるということも知っていた。

 そして、同じく武人と真里菜が、今日一緒に出かける予定がないということも事前に情報収集済みだ。もっとも、情報収集といっても黙っていても勝手に二人が喋ってくれるのだが。

 だからこそ、今日武人を連れ出すことができたのだ。


 既に真里菜に対して一周遅れの身である加奈子は、目指す位置を『親友ポジ』にすることにした。

 極めて無難な話題ばかりを振ることで、武人に不快感を与えないように腐心した。武人が同性の友人と過ごす時間であるように、恋愛感情を完全に封じて無難なことばかりを言ってきた。

 今回のカフェをきっかけに、一緒に出かける機会が多くなればいい、と。武人にとっては同性の友人と過ごすような時間を提供しながら、しかし対外的には恋人と認識されるような、そんな逢瀬を重ねていくつもりだった。

 ベストなのは、いつか真里菜と別れたそのとき、愚痴を聞くような感じの立場として一緒に出かけるような、そんな立ち位置を目指していたのだ。


「しかし、確かに携帯電話がないというのは不便ですね。今までは必要性を感じなかったのですが、確かに武人と連絡をとるためには、必要だと感じます」


「いや、僕以外と連絡をとるのにも必要だと思うけど……」


「柔道部の連絡は、連絡網で自宅にかかるようにしています。マスコミや全柔連との連絡は、基本的に姉が窓口に立ってくれていますので、そちらに全部任せています」


「梨央奈さんに任せていいの!?」


「取材のときのスケジュール調整などもしてくれてますので、非常に助かってます」


「まさかのマネージャー!? あの人のことだからマージンすごく取ってそうだけど! ちゃんと取材料とか正規の値段でもらってる!?」


「何を言いますか武人。マスコミが私に取材をするために、お金なんて払ってくれませんよ」


「まさかのマージン総取りとか騙されてるよ!」


 梨央奈さんとは一体誰なのだろう。

 そう思いながら、二人の会話に口を挟めない自分がいて、加奈子は唇を噛む。

 この場にいたのは、武人と加奈子の二人だけだったはずなのに。二人きりでの、デートだったはずなのに。

 完全に封じ込めたはずの感情が、溢れてくるのが分かる。普段、三人で過ごす昼食のときにも、ずっと蓋をしていた感情だ。真里菜がいい奴なのは知っているし、裏表のない女だということも知っている。それでも、嫉妬の心が浮かんでくるのは堪えられない。

 こんな風に三人でいながら、真里菜と加奈子の間には、圧倒的な壁があるのだから。


「先日、CMとやらにも出演しましたけれど」


「まさかのCM出演!?」


「そちらは、あくまで私が今後のオリンピックに出場する際などに応援してもらうためのものであるため、特に金銭など発生しないと言われました。私がおにぎりを食べることがどう応援に繋がるのか分かりませんが」


「それ物凄い額奪われてるよ! あとそのCMいつ放送なのか教えて!」


 そもそも、加奈子と真里菜の間には、明確な差がある。

 真里菜は将来を嘱望される柔道選手であり、次のオリンピックにおいて金メダルは間違いないと言われている逸材だ。比べて加奈子は、中学時代こそ関東大会で準優勝しているものの、高校に入ってからは県大会ベスト4がせいぜいである。

 しかも柔道選手としてのみならず、その見た目は圧倒的な美少女だ。柔道を続けるよりも、芸能界に入った方が明らかに稼げるんじゃないかとか、そう思えるほどである。比べて加奈子の見た目は、十人いれば三人くらい「可愛いんじゃね」と言ってくれる程度のものだ。そのくらいの自己評価である。


 最初から、勝負になどならない。

 それは知っていた。


 でも、そんな加奈子にも、少しだけ自信はあったのだ。真里菜よりも、加奈子の方が武人との付き合いは長い。せいぜい二、三ヶ月くらいのものだけれど、真里菜が武人とまともに会話を始めたのは最近である。

 だから、武人のことをより多く知っているのは加奈子だと、そう思っていた。武人と話をしていて、一番楽しいのは加奈子だと、そう思っていたのだ。

 なのに。

 何故――こんなにも、楽しそうに真里菜と話しているのか。


「なるほど……あれは、金銭の発生することだったのですか。では何故、私に対してそのような嘘を……」


「いや、自分の懐に入れるためだと思うけど……」


「なんと。つまり私は一方的に金銭を奪われていたということですね。仕方ありません……」


「へ……ど、どうしたの?」


「姉を、アスファルトの上で背負い投げの刑に処します」


「やめて梨央奈さん死んじゃう!」


 立ち上がる真里菜を、そう止める武人。

 どことなく、ずれたところがある娘だと思っていた。常識が足りないと、少しだけ思ってはいた。

 だけれど、そんな真里菜と武人が、こんな風に噛み合うなんて全く思っていなかった。いずれ、女子力というか常識のなさに武人が呆れることだろうと、そう思ってすらいたのだ。

 なのに。


「さて、では私はこれで失礼します。ランニングの途中なもので」


「え……あ、うん……。梨央奈さんにアスファルトの上で背負い投げはやめてね……?」


「何を言いますか。さすがに冗談です」


「冗談と本音の区別がつきにくい自分の表情をまず鑑みよう!」


 それでは、と席を立ち、そのまま背を向けて店を出てゆく真里菜。

 その背中を見送りながら、やれやれ、とばかりに武人が肩をすくめた。

 どことなく、嬉しそうに――楽しそうに。


「……あのさ、千葉」


「う、うん? どうしたのさ、加奈子」


 コーヒーを口に含んで、それからケーキに手を伸ばす武人。

 結局、加奈子が最初に食べた部分、そして真里菜が訪れて唐突に食べた部分以外は、まだ手付かずのケーキだ。


 やだなぁ、と自分で思う。

 こんな風に、黒い感情が湧いてくるなんて、らしくない。

 最初から一周遅れであることは分かっていたのだ。今更、その差を感じたところで、何の意味もないんだから。


「あたし、ちょっと用事あるから帰るわ。支払い済ませとくから」


「あ、そうなの?」


「うん。また一緒にケーキ食べよ」


 ただ。

 今だけは。


「それじゃね、千葉」


 ちょっと、武人のいないところで。

 泣かせてほしかった。

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