第61話 閑話:真里菜さんは珍しく考える
「ふぅ……」
ランニングを終えて、適度に汗で重くなった学校指定のジャージと共に和泉真里菜は自宅へと帰り着いた。
明日が練習試合ということで、今日は珍しく土曜日が休みの日である。本当ならば日曜日に武人と一緒に出かけるつもりだったのだが、練習試合のメンバーとして自分の名前が刻まれていることを確認して、残念に思いながらも今週はやめておくことにしたのだ。
明日の試合相手は、山の上のカトリック系お嬢様学校、聖マリエンヌ女学院。勿論ながら、宗教に何の興味もない真里菜にとっては、初めて聞いた学校名でもある。
そんな学校にできた、新設の柔道部との練習試合――少なくとも、得られるものなど何一つないだろう。そんな試合に出場するくらいならば、武人と一緒に出かける方が余程楽しいというのに。
しかし、嬉しい誤算は明日の練習試合を、武人が見に来てくれるということだ。
わざわざお弁当を作ってくれるというし、それは心から楽しみである。何より、真里菜にとっての得意分野――柔道を、まだ武人の前で見せたことがないのだ。
自分が今まで、全てを捨てて打ち込んできた柔道だ。練習試合という舞台ではあるけれど、それを武人の前で示すことができるというのは、真里菜にとって喜びでもあった。
「さて、お風呂に入りましょう」
額に流れる汗を乱暴に拭って、真里菜はそのまま風呂場へと急ぐ。
汗に濡れた体を、そのまま放っておけば体調不良にも繋がるのだ。自己管理を誰よりもストイックに行う真里菜にとって、ランニングの後の入浴はルーティンの一つでもある。
汗だくのジャージ、下着を乱雑に洗濯籠の中へと放り込み、そのまま真里菜は頭頂からシャワーの湯を思い切りかぶった。そんな風呂場の湯船には、既に適温の湯が張られている。シャワーだけだと体が冷えるために、毎朝風呂を沸かしてからランニングに向かうのは真里菜の日課でもあるのだ。
肩あたりで揃えた髪へとシャンプーを通し、しっかり洗い流してから鍛えられた体を擦る。真里菜が入った後の残り湯は、そのまま母が洗濯に使用するのだ。少しでも汚れを残してはならぬ、と全身をしっかり洗い流した。
そして、そのまま湯船の中へ。
「……ふぅ」
適度に温められた湯に、体が芯から熱を持つのが分かる。
大きく息を吐くと共に、真里菜はそのまま鼻の下まで湯の中に入れて、口元でぶくぶくと泡を吹き出した。
ランニングを終え、風呂に入れば真里菜の休日に行う運動は終わりである。今日は土曜日であるために警察署の夜間練習があるが、それまでは自由な時間だ。そして、真里菜にとって数少ない自由な時間は何に使われるのかというと、ほぼ睡眠時間だったりする。最近は武人と出かける方が楽しいけれど、本来一週間酷使した体を休めているのだ。
だから、この入浴を終えたら、あとは休むのみ。それが真里菜のルーティン。
だけれど――そんな至福の時間であるはずの入浴中に、心を過るのは今日の光景だ。
「……」
真里菜のランニングコース上にある、最近オープンしたカフェ。
喫茶店に特段の興味を持っていない真里菜にとっては、ただの日常風景の一つに過ぎない。だけれど、武人は将来的にパティシエになりたいと言っていたし、お菓子作りが得意だ。そのあたりを少しでも理解するべきなのかと考えて、丁度ランニングコースにあったその喫茶店のことは、チェックしていたのだ。
とはいえ、入ることはなく、窓から中を少しだけ眺めるくらいだったけれど。
だが――まさか、そこに武人と加奈子の二人がいるとは思わなかった。
「……」
仲良さげに、窓際のテーブルにいた二人。
そんな二人の間にあるのはケーキで、まるで加奈子が武人に対して「あーん」をしているような、そんな光景が映った。
何故、喫茶店に二人で来ているのか。何故、そんな風に仲良さげに二人で過ごしているのか。何故、真里菜ではなく加奈子と一緒に来ているのか。そこに疑問は、唸るほどあった。
だが、そこで姉――梨央奈の言葉を思い出したのだ。
――あんまり縛っちゃダメよ。男は、友達と過ごす時間を大事にするんだから。
なるほど、確かに加奈子は武人の友人である。少なくとも、真里菜に武人のことを教えてくれたのは加奈子だったのだから。
そして縛るという意味もよく分からなかったので聞いたが、つまるところ『自分以外と会うことを禁ずる』という意味合いだったらしい。真里菜にしてみれば、武人が友人と過ごす時間まで邪魔をするつもりなどないし、むしろ真里菜の方が日々忙しくしているから、それほど一緒に過ごすことができないという難点もある。
だからこそ、加奈子と会っていたことも、友人と過ごす時間を大事にするという意味合いだったのだろう、と自分を納得させた。
「……」
だけれど。
この、心の奥底でざわざわするような、奇妙な感覚は何なのだろう。
加奈子のことはよく知っているし、信頼できる仲間だとも思っている。
武人のことは信用しているし、浮気などしないという信頼を抱いている。
だが、真里菜の心の奥底にあるものは、そんな理屈では納得できない、得体の知れないものだった。
まるで――そう、武人が加奈子と会っていた、そのこと自体が不快であるかのような。
「……ふむ。分かりませんね」
理解できない、よく分からない感情に心が支配されるような感覚。
理屈の上では納得しているのだ。加奈子は武人の大切な友人であり、武人が今後も友人関係を継続してゆくのであれば、これから何度となく同じように二人で出かけることがあるだろう。少なくとも、武人に加奈子に対する恋愛感情はないように思える。そして、その逆もまた然りだ。
だけれど、それが。
武人が『他の女』と一緒に出かける――そう変換すると、さらに心がざわついてくる。
ばしゃっ、と真里菜は風呂の湯を、思い切り自分の顔にかけた。
きっとこの感情も、真里菜が狭量だからだろう。あくまで友人との付き合いである以上、真里菜に口を出す権利はない。
いつかは、こんな感情にも納得のいく答えを、得ることができるのだろうか。
「……ふぅ」
十分に温まった体を、湯船から出す。
あとはバスタオルでしっかりと拭いて、体を冷やさないように休むだけだ。
上下スウェットの部屋着に替えて、ほかほかと湯気の立つ体で、そのまま浴室から出ると共に。
「あら。真里菜ちゃん、おかえりなさい。帰ってたのねー」
「ええ、姉さん」
姉――梨央奈と、遭遇した。
それと共に思い出すのは、武人の言葉。
「姉さん、お話があります」
「どうしたの?」
「ええ……」
今まで受けてきた、雑誌の取材やテレビの取材。
CM出演や写真撮影。
その全部――この姉からは、「真里菜ちゃんを応援するためのものなのよー」と言われ続けてきた。そこに金銭が発生することなど、全く知らずに。
「……ちょっと、場合によっては制裁が必要な案件があります」
「ごめんお姉ちゃんちょっと用事が」
真里菜は。
そう足早に去ろうとした梨央奈の首根っこを掴み。
にこり、と。
真里菜にしては珍しく、そう笑みを浮かべた。
梨央奈にとって、それは地獄への導きであるように感じたことだろう。
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